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映画「普通に死ぬ」を普通に観てほしい


泣いた。


映画が終わって、監督挨拶に貞末麻哉子監督が出てきて、しゃべりだしたら、また涙が止まらなくなった。貞末監督にお会いするのは二度目だけれど、生真面目で、不器用で、こだわりが強くて、ご自身も生きづらいだろうに、よくぞ10年もの歳月をかけて、この作品を撮って完成させたと思ったら、熱いものが込み上げてきて、涙があふれて止まらなくなった。

ドキュメンタリー映画「普通に死ぬ~いのちの自立~」は、今私たちの社会が目を背けようとしている人たちを追いかけた作品だ。前作「普通に生きる」のその後を追う内容であることから、題名は「普通に生きる2」でよいではないか?と言われもしたらしい。劇場から、この題名ではかけることが出来ないとまで言われてなお、『死ぬ』という文字を外せなかったと言う。

『生まれる』とか『生きる』とかいう題名は人を集めそうだけれど、『死ぬ』は人々に忌み嫌われそうだ。劇場に難色を示されても、集客が難しくなると言われても、なお?、、、あえて?、、、だからこそ?、、、、『死ぬ』という言葉を使った貞末監督の覚悟を、真正面から受け止めたい。

『死ぬ』という言葉も、貞末監督の覚悟も、重いと感じる方はいらっしゃると思う。けれど、案外、私たち障がい当事者家族(=ケアラー)は、そんな重さは自分が持っているだけに、ちっとも重いとは思わなかった。映画「普通に死ぬ」は私たちの日常を描いた『(私たちにとっての)普通の映画』だ。みなさんが普通にその重さを感じてくれたら、私たちの心は軽くなるというものだ。

私はずっと思ってきた。『この重さ、苦しさは、多くの人にとって、片棒を担ぐのはごめんこうむりたいものだろう。だから、明るく軽く笑って伝えていこう。そして、笑って死んでやろう』と。

その『笑って死んでやる日』が、今日来るかもしれない。明日来るかもしれない。そんなこと言っちゃダメとか、そんなこと考えちゃダメとか言われても、『疲れちゃった』体に、『死』の文字が浮かぶことは、ケアラーあるあるだ。それはこの映画のテーマではないが、それほどまでに、私たちにとって『死』は身近だということだ。

まだ、広く認知されていないから、何度でも言う。障害は社会にあるのだ。社会が手助けの必要な子どもを受け止めるシステムを持っていないのだ。生まれて来る前に命の選別さえしようとする社会なのだ。生まれてきてさえ、排除し、区別し、制限をする社会なのだ。その事実に、びっくりするだろうが、そんな社会なのだ。現実なのだ。私たちは、排除され、区別され、制限をされる子どもを抱えて、必死に生きているのだ。

でも、そんな風に必死で生きていると、そんな中で素晴らしい人たちに出会う。この映画に出てくる登場人物も素敵な方ばかりだ。それは、この手助けの必要な子どもたちが育ててきた人たちでもある。助けようとしているうちに、助けられてきた人たちだ。

私がかつて、我が子を必死で守っているつもりでいたのに、気づけば守られていたように。私が子どもを育てようとしてきたのに、気づけば育てられてきたように。私が子どもに何かを教えようとしていたのに、気づけば教えられていたように。

貞末監督のカメラは、意思疎通が難しいと言われる人の意思をしっかりと捉える。スクリーンにその人の気持ちを映し出す。じっくりと付き合っていれば、通じるものなのだと教えてくれる。それはそんなにむつかしいことではないことも。

わかろうとすればわかるし、わかろうとしなければわからないことなのだ。

そして、わかろうとしてわかると、俄然人生が楽しくなる。生きていることが嬉しくなる。モノクロの世界が色とりどりの世界になる。自分も生きていていいんだと思えるようになる。それは、たとえ自分がこの先病に倒れても、体が動かなくなっても、言葉が話せなくなっても、この先もずっと生きていていいんだということがわかる。

その時に手を差し伸べてくれる人は、私たちの子どもが育ててくれている。言葉がなくても、言いたいことをくみ取り、体が動かなくても、行きたいところに連れていってくれ、大切にしてくれる人。願わくば、そんな仕事をする人の給料はどんな仕事より高給であってほしい。そうしたら、安心して生きて死ねるというものだ。

生まれてきたすべての命を祝福できる社会になりますように。

今生きているすべての命を大切にする社会でありますように。


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(写真右が貞末麻哉子監督、ただし「監督」と呼ばれても気づかない謙虚な方)


追伸・ネタバレにならないように感動したシーンなどの描写は慎んだ。思い出すだけで涙がにじんでくる。出会わせてもらったいくつもの人生を、何度も何度もかみしめている。ぜひじっくり見てほしい。

それから私には、実は1箇所だけ気になる訪問医の言葉がある。どうかこの映画を観て、そのことについて一緒に考えられたら幸いだ。



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