Eの箱庭

7:00 AM
その日はとても気持ちの良い天気だった。
「うーん、いい朝」
わたし−川辺絵里−は清々しい気持ちで、寝室のカーテンを開けた。抜けるように青い空。白い雲。いつも見慣れた風景だ。窓を少し開けて深呼吸した後、わたしは朝食の準備をするべく一階のキッチンへ向かった。今日もいい日になりそう。そんな気がした。

 キッチンの中は、目玉焼きが焼けるいい匂いが立ち込めていた。今朝のメニューは、ベーコンエッグに、こんがりと焼けたトースト。家族みんなが大好きな定番メニューだ。
「ふん、ふんふーん」
 鼻歌まじりで、出来立てほやほやのベーコンエッグを皿に乗せていると、入り口の方から声がした。
「おはよー」
「おはよう、健一さん」
ちょっと天然パーマがかかった黒髪に、少し眠そうな目。
彼の名前は川辺健一。わたしの大切な夫だ。
「ママ、おはよー」
健一さんに続いてやってきたのは、莉子。四歳になるわたしの娘だ。わたしと健一さんのいいところばかりを受け継いだかわい子ちゃんだ。
「おあよー」
その後ろにちょこんといるのが、莉子の弟にして、我が家の長男である蓮。こないだ二歳になったばかりの甘えんぼさんだ。
「莉子、蓮、おはよう」
わたしはちょこまかと寄ってきた蓮を抱き上げた。その横で、テーブルに並ぶ今朝の朝食を見た健一さんはこう言う。
「今朝も美味しそうだね」
「うふふ、ありがとう」
なんの変哲もない、いつも通りの朝。いつも通りに朝食を食べ、いつも通りに、莉子の身支度を手伝い、そして送り出す。一見すると、ごくありふれた風景。だけど、わたしにはとても尊いものに感じるのだ。なんでかはわからないけど。

8:00 AM

「今日も頑張ってきてね。莉子」
家の前で、わたしは莉子の頭を撫でながらそう言った。
「うん」
彼女は、にっこりと笑った。
「健一さん、気をつけてきてね」
「わかってるよ、絵里」
健一さんは、わたしの肩に手を置いた。そんな彼の頬に、わたしは優しく口付けた。
「蓮、お姉ちゃんとパパに行ってらっしゃいは?」
わたしが腕の中にいる蓮にそう声をかけると、彼は、右手をピッとあげた。
「いってらっちゃーい」
「ふふっ、行ってきまーす」
莉子は、そう言いながら右手をひらひらと振った。わたしも右手を振り返した。

11:00 AM

「これで、よしっと」
健一さんと莉子を見送った後、わたしは、掃除や洗濯などの家事をした。すべてを終えて、ふとリビングの方を見ると、蓮が遊び疲れたのか、床の上ですやすやと寝息をたてていた。わたしは、その横にゴロンと寝転ぶ。
「ふふ……」
彼の寝顔を見ているうちに、わたしは、いつの間にやら寝入ってしまった。

--:00

「……っ」
どれくらい寝ていたのだろうか。ズキン、という痛みと共にわたしは目を覚ました。目を擦りながら窓の向こうを見ると、日がだいぶ傾きかけていた。
「やだあ、寝過ごしちゃった」
慌てて立ち上がったその瞬間、わたしは大変なことに気づいた。
「れ……ん?」
なんと、隣で寝ていたはずの蓮がいなくなっていた。
「まったく……どこへ行ったのかしら」
わたしは少し痛む腰をさすりながら彼が行きそうなところへ向かった。まずは、トイレだ。蓮は機嫌が悪くなると、すぐにここに閉じこもるのだ。彼は、どんなにゆすっても起きないわたしに腹をたててここにこもってるに違いない。そうわたしは考えたのだ。
「れーん!」
思いっきりドアを開けると、そこには誰もいなかった。目の前にあるのは、ありふれた洋式便所だ。わたしは首を傾げた。
「もしかして、二階にいるのかな」
わたしは、ドアを閉めて、二階に探しに行く。子供部屋や、わたしたちの寝室などを探したがこちらにもいなかった。
「……」
一瞬胸の中に嫌な予感がよぎったが、最後の一縷の望みを託して、わたしは風呂場を探した。ここにもいなかった。
「蓮……」
わたしは、ため息をついた。
「まったく……どこに行ったのよ」

数分後。わたしはダイニングにいた。もし、家の中にいないならどこに行ったんだろう。わたしはテーブルに突っ伏しながら考えた。あの子はまだ二歳だ。もし事件に巻き込まれていたら、大変だ。頭を抱えながらそう悶々と考えているうちに、わたしはあることを閃いた。
「そうだ、母さんのところにならいるかも」
 母さんのところ−つまりわたしの実家は、ここから歩いてすぐ−歩けるようになった蓮でも行ける距離だ−のところにある。蓮は、へそをまげてあそこへ歩いて行ったのかもしれない。わたしは微かな希望とともに立ち上がった。

 実家のチャイムを押すと、母が出迎えてくれた。
「あら、どうした……」
「母さん、蓮いない?」
すると、母はまゆをひそめた。
「蓮?誰よそれ?」
「わたしの息子の蓮よ」
わたしは、焦って思わず早口になっていた。
「ほら、よく遊びに来てたじゃない」
「ばか言うんじゃないよ」
母はため息をついた。
「あんた結婚もしてないのに、よくそんなこと言えるね。夢でも見たんじゃないの」
「え……?」
それは信じられない言葉だった。母は、わたしがまだ独身だと思い込んでるのだ。
「忘れたの?」
そう聞くわたしを、母は怪訝そうな顔で見た。
「絵里、あんたまだ寝ぼけてるんじゃないだろうね」
「……」
気づけば、弾かれるように走っていた。

「はあ……」
実家を出てから数分後。わたしはため息をつきながら歩いていた。そんな中、ふと今何だろうと思って、スマホの時計を見ると、もう午後五時を示していた。もう莉子を迎えにいく時間だ。
「もうこんな時間か……」
わたしは、なんとか気持ちを切り替えるために一回自宅に戻ることにした。

少し冷たい夕方の空気の中を、ママチャリで駆け抜けていく。
「莉子と健一さんにはなんて言ったらいいんだろう……」
頭の中はずっとそのことでいっぱいだった。莉子は一番悲しむだろうし、健一さんは心配するかもしれない。そんなことを考えているうちに、わたしは幼稚園に到着した。

 わたしは、ママチャリから降りるなり全力で駆け出した。
「莉子、迎えに……」
園庭に入ったところで、思わずわたしは立ち止まった。
「あれ?」
普段なら、ここで莉子がママと言いながらやってくるのだが、なぜか今日はそれがなかった。
「莉子?」
わたしは、園庭の中に、彼女の姿を探した。しかし、いなかった。
「建物の中かな」
わたしは、幼稚園の建物の中も見てみた。それでも、莉子の姿はなかった。嫌な予感が頭の中を再びよぎったその時、後ろから声がした。
「どうされました?」
振り向くと、青いエプロンをした女の先生が立っていた。莉子がいつもお世話になっている宮田先生だ。
「あの、川辺莉子の母親なんですけど」
わたしがそこまで言うと、彼女は、先程の母と同じ顔をした。
「川辺莉子?」
嫌な予感は当たってしまった。残念ながら。
「そんな子はいないですねえ」
宮田先生はさらに続ける。
「川辺真子まこって子ならいますが」
一文字違いの子がいるなんて初耳だった。
「この子なんですけど」
わたしはスマホのロック画面にしている莉子の写真を宮田先生に見せた。すると彼女は微笑みながらこう言った。
「ああ、これは真子ちゃんね」
わたしは混乱した。まさか莉子のことを別人と思い込んでるなんて。そんな中で、また後ろから声がした。
「あら、あなた川辺さんと知り合いなの?」
「はい?」
声のした方を見ると、灰色のワンピースを着た上品なご婦人がいた。わたしは、この人をよく知っている。莉子の友達であるみのりちゃんのママだ。彼女とは子供同士が仲がよかったせいか、ママ友の中で話す機会が多かった。
「川辺さんって、真子ちゃんのお母さんですか?」
「ええ、そうよ。さっきまで、駐車場で話していたわ」
この時、わたしの中にある予感が生まれていた。
「その人って、二歳くらいの男の子とか連れてなかったですか?」
「ええ、連れてたわ」
「そうですか」
わたしはさらに聞く。
「で、何色の車に乗っていました?」
「あらあら、好奇心が豊かねえ」
みのりちゃんのママはそう苦笑しながらも、こう教えてくれた。
「空色の軽自動車よ」
「ありがとうございます」
「ところであなた……」
彼女が聞くよりも早く、わたしは鉄砲玉のように駆け出した。
「ちょっ……」
みのりちゃんのママの声はもはや届いてはいなかった。

 数分後。わたしは幼稚園の最寄りの駐車場に来ていた。
「あそこね」
わたしが来た時には、例の空色の車は、駐車場を出ようとする列の中にいた。あの中に莉子と蓮がいるのだ。
「莉子、蓮。待っててね。ママが助けるから」
わたしは決死の思いでママチャリのペダルを踏んだ。しかし、車はわたしが追いつくより先に道路に出ていた。
「逃がすもんか」
わたしはそれを追うべく、ペダルを強く踏みしめた。

ギュイン、ギュイン、ギュイン。この時、自分が乗っているのが電動アシスト付きでよかったと強く思った。わたしは今までにないくらいの強い力で、ママチャリを漕いでいた。けれども、それと車の力の差は顕著で、追っているうちにどんどん突き放されていった。わたしは負けるもんかと力いっぱいにペダルを漕ぐ力を強めた。この日着ていたキャミソールワンピの裾がやぶけるほどに。このように全力をかけていたわたしだが、順調だったのはここまでだった。
「あっ……」
急にプシュッ、という音がして、わたしは、ママチャリ共々倒れてしまった。
「嘘……」
長い間、買い物やお迎えのお供として活躍した相棒は、ついに終わりを迎えてしまった。悲しみを堪えながら、わたしはそれを捨てた。別れを惜しむ時間などわたしにはなかった。そんな中、偶然近くに停めてあった自転車が目に入った。
「……」
心のどこかでは悪いと思いながらも、わたしは、それに乗って再び追いかけはじめた。全ては二人を取り戻すためだ。
「ちくしょうっ……」
わたしは、さっきの倍くらいにペダルを漕いだ。わたしの知らないところで、健一さんの妻を騙り、さらには莉子と蓮に違う名前を名乗らせその母親を名乗っている。わたしは、あの空色の車の持ち主が憎かった。健一さんの妻、そして莉子と蓮の母親は、このわたしだけで十分なのだ。だから、このまま野放しにしておけなかった。わたしは、その思いだけで、ペダルを漕ぐスピードを早めた。そして、その思いが功を奏したのか、わたしの自転車は、空色の車にすぐに追いついた。わたしは走るスピードをやや緩め、このまま後ろをつけることにした。

数分後。車は住宅街の中の一軒家に到着した。わたしは、少し離れた物陰から、車が停まるのを待った。
「莉子!蓮!」
車の扉が開いたタイミングで、わたしは、莉子に駆け寄った。
「怖かったね……ママと一緒におうちに帰ろうね」
わたしは彼女を抱きしめた。しかし、莉子はまるで他人を見るような目で、思いも寄らない言葉を吐いた。
「おばさん、誰?」
「え?」
わたしを見つめる彼女の目はどこか冷ややかだった。
「何言ってるの?ママよ」
「違うよ。ママはこっち」
莉子が指さした先には、わたしと同じくらいの年頃で、同じ色のキャミワンピを来た女が立っていた。しかも、その腕の中には蓮がいる。
「こら、真子。おばさんは失礼でしょ」
彼女がそう言うと、真子と呼ばれた莉子はいつもそうするように舌をぺろっと出した。
「えへへ、ごめんごめーん」
わたしは、女にこう詰め寄った。
「ねえ、うちの莉子と蓮を返して」
すると、女はポカーンとした顔で、わたしを見た。
「え?この子たちの名前は、真子と翔かけるよ」
彼女は、馬鹿じゃないのと言いたげな目でわたしを見た。
「そんなの嘘よ」
わたしは、相手の胸ぐらを掴んだ。
「返したくないから偽名を名乗らせてるんだね」
「偽名?なんのこと?」
もはや一足触発だった。そんな中で、聞き覚えのある声がした。
「おいおい、どうしたんだよ」
「健一さん」
「井澤……」
声の主は健一さんだった。でも、わたしをいつもの名前呼びではなくて、苗字−しかも旧姓呼びだ−で呼ぶなど、どこかおかしかった。
「健一さん、これってどういうことなの?」
「は?」
「なんで別の人が正妻面してるのよ」
「……」
「とぼけないでよ。わたし達夫婦でしょ?」
彼は、少し上に視線を彷徨わせた後、苦笑しながらこう言った。
「夫婦だって?」
彼は、くすぐったそうにくすくす笑った。
「はは、笑わせるなあ」
「え?」
驚くわたしの目の前で、健一さんは女の肩を抱いた。
「俺の妻は、藍子あいこただ一人だ」
藍子と呼ばれた彼女は少し顔を赤らめた。
「……」
わたしは、この藍子という名前になぜか聞き覚えがあった。震えながら立ち尽くしているわたしを前に、健一さんはこう言った。
「今までずっと言いたかったんだけどさ……」
その瞳は、信じられないくらいに冷たかった。
「お前ってさ、しつこいんだよ」
「……」
「しつこくつきまとっては、健一さーんってベタベタくっついてきやがって。一度優しくしただけなのに」
「やめて……」
わたしは頭を抱えた。脳裏に一度は封じたはずの記憶が蘇りかけたから。
「俺は、あんたみたいなブスと付き合う気もないし、結婚する気もない」
その瞬間、激しい頭痛と共に、わたしの両手に黒いヒビのようなものが入った。ヒビはどんどん全身に広がっていった。
「お願い……やめて……わたし、ここにいたい」
うわごとのように、わたしはそう呟いた。しかし、その願いも虚しく、わたしの体はガラスのように粉々に砕け散ってしまった。絶望の中、わたしの意識は遠のいていった。

***

--:--

深い暗闇の中、白い光のようなものが、こちらの方へ近づいてきた。それは次第に人の形をとり、わたしの前に姿を表した。白い制服を着たぽっちゃり体型の女。それは本当のわたしの姿だ。わたしは、とある研究施設で清掃員として働いていたのだ。わたしは、手を動かしながら、ある一点を見つめていた。その視線の先には、健一さんがいた。彼は、ウォーターサーバーのセールスマンとしてうちの研究所に営業に来ていたのだ。そんな彼とわたしの出会いは、些細なもので、わたしがズボンの後ろポケットから落ちたハンカチを、健一さんが拾ってくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
完全に一目惚れだった。この日以来、わたしは健一さんにぞっこんになった。
「健一さーん!」
彼が来るたびに、わたしはその広い背中に飛びついたり、時には手作りのお菓子を渡したりした。そのたびに、健一さんは困ったような笑みを浮かべていた。それを見たわたしは、彼はわたしのことが好きなのだと完全に勘違いしていた。絶対この恋は成就する。わたしはそう思い込んでいた。しかし、現実は厳しかった。

「え、もう近づかないでくれ?」
なんと、健一さんの会社から、接触禁止命令が出たのだ。上司は、ため息まじりに言った。
「君が川辺さんを好きでいる気持ちはよーくわかるんだが、少しやりすぎなんだよね」
「……」
「これ以上しつこくしたら、うちの業績にも響く」
彼はさらに続けた。
「もし、接触禁止令を破ったら、君をクビにするからね」
「そんな……」
わたしは、その場に項垂れた。しかし、悪いことはそれだけではなかった。
「嘘、健一さんが結婚?」
「うん、そうらしいよ」
健一さんが結婚したと同僚から聞いたのは、彼と出会って半年後のことだった。
「相手は誰なの?」
「事務の渡辺藍子ちゃんだよ」
「あー……」
わたしの初恋は、儚く散っていった。でも、心のそこではどこかあきらめきれなかった。寝ても覚めても、思い浮かぶのは、健一さんのことばかりだった。彼との理想のデートや、甘い結婚生活。わたしは彼との幸せな生活ばかりを夢想していた。そんな日々が続いていたある日、わたしは、よく話す研究所の職員から、こんな話を持ちかけられた。
「ぶ、VR機器の実験台になってほしい?」
「いやあ、内部の連中に頼んだんだけど、あいにくみんな都合がつかなくてね」
彼は頭をぼりぼりと掻きながらそう言った。
「どんなやつなんです?」
「頭の中で想像してるやつを形にする夢のマシンだよ」
「え……」
彼曰く、そのマシンは脳の神経パターンを読み込んで視界に反映させる仕組みらしい。
「つまり……わたしの考えてることがそのまま起きるってことですか?」
そう言うわたしの脳裏には、健一さんとの妄想生活が思い浮かんでいた。
「うん、そんなもんだね。で、引き受けてくれるかい?」
わたしの答えは一つだった。
「やります」

数日後。
「じゃあ、早速これをかぶってくれ」
施設内の実験室で、わたしはVRゴーグルのようなものがついたヘルメットを被らされた。
「ぼくが三つ数えたら、目を開けてくれ」
「わかりました」
わたしは、カウントをしてる間、目を閉じて健一さんのことをを思い浮かべた。カウントが終わった瞬間、わたしは目を開けた。すると、自分の周りがおしゃれなレストランに変わり、目の前には健一さんの優しい顔があった。
「絵里……」
こんなことが、目の前で起きていいものだろうか。
「俺と結婚してくれ」
わたしは、頬を赤らめながら言った。
「はい……」
この時、わたしは現実世界のことは忘れようと思った。ヴァーチャル世界は、わたしの脳内を反映したせいか、周りの人が優しく、住み心地がよかった。その結果、わたしは健一さんとの間に二人の子供をもうけ、体感時間で八年くらいも長居してしまった。そうして今に至るのだった。

「……」
ゆっくりと目を開けると、白い天井が見えた。ここはどこだろうと視界を巡らせていると、声がした。
「あっ、やっと目をさましたね」
声の主は、あの時、実験に誘ってくれた研究員だった。
「まったく……長時間のダイブは体に悪影響が出るのに」
「誰なの……わたしをここに引き戻そうとしたのは」
わたしがそう言うと、彼は照れ笑いしながらこう言った。
「ああ、ぼくだよ。本体の方に現実に近いデータを入れたんだ。君を現実に引き戻すためにね」
「本当にいい夢を見せてもらったわ」
わたしは、ゴーグルを外しながらそう感慨深げに呟いた。

現実世界に戻ってきて一週間後。わたしはビルの屋上にいた。わたしは、眼下に広がる景色を見ながらこう呟いた。
「あっちがダメならせめて……」
わたしは、天を仰いだ。父さん、母さん、これまで関わってきたみんな、ごめんね。わたし、やっぱりあきらめきれない。わたしは目を閉じて深呼吸をした後、そこから飛び降りた。ビルの間を吹き抜ける風の音も、何も聞こえなかった。

「……ま、ママ」
耳元で懐かしい声がした。目を開けると、蓮が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「蓮……」
わたしはたまらず彼を抱きしめた。嬉しさのあまり、わたしは泣いていた。
「ママ……」
「何?」
わたしがそう言うと、蓮はわたしの頬に手をやった。
「どったの?」
「え?」
頬に手をやると、手に涙がついた。
「なんでもないわ……ありがとね」
わたしは優しく微笑んだ。わたしはただ、悪い夢を見ていたのだ。莉子と蓮が別人になっていたのも、健一さんから振られたのも、そして彼が別の女と結婚したことも、これまでの全てが悪い夢だったのだ。でも、それもじきに忘れることだろう。わたしは、涙を拭いて立ち上がった、
「さあて……」
わたしは部屋の窓を開けた。優しい風がわたしの頬を撫でた。莉子を迎えに行ったら、いつもの倍以上に抱きしめてやろう。そして今夜の夕食は、健一さんの大好きなハンバーグにしよう。そして帰ってきた彼がびっくりした顔を見るのだ。
「ふふ……」
そう思うと、自然に笑みが溢れてきた。わたしは、空に向かって大きく伸びをした。
「そろそろ、お昼にしようか」
わたしはそう言うと、窓を閉めてキッチンに向かった。

ここは都内某所にある路地。ビルとビルの間の死角になっている路地で、一人の女が頭から血を流して倒れていた。おそらくビルの上から飛び降りたであろう彼女の顔は、まるで幸せな夢を見ているかのように穏やかだった。

(了)


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