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意外と書くことあった、自己紹介

こんにちは。長崎に住む1人の女子大生です。(今は熊本に住むOLです。)とある理由で初めてnoteを書くことになりました。自分の話をするのは苦手なのですが、私という人間を知ってもらうためにキーボードを叩いています。まとまりのない文章ですが、さらっと目を通していただけましたら幸いです。

1. 家庭環境

私は愛知で生まれましたが、父の仕事の都合上すぐに熊本へ引っ越し、そこから約17年間熊本で過ごしました。大学進学を機に、現在は長崎で暮らしています。長崎は住みやすく、自然もたくさんで良いところですが、やはり将来は熊本へ戻りたいと考えています。都会は苦手だし、やっぱり地元は落ち着く、あとは母の近くにいたいという気持ちが強いです。

私は長女で、2つ下に弟が1人います。小さいころから大きな喧嘩をすることもなく、仲良くやっています。私が受験生のころは彼のゲームをする時の声がうるさく、私が一方的に嫌っていましたが、離れてみて大切さが分かるものですね。弟は現在熊本高等専門学校に通っており、プログラミングの勉強に励んでいます。

家庭はあまり裕福ではありませんでした。私が2歳の時、父がうつ病を患い、色々と大変な思いをしてきました。今もその病気は治っていません。父が母へ暴力をふるっているところを見たり、自傷行為をしているところを見たり、薬物乱用や自殺未遂をして警察沙汰になったりしたこともありました。泣いて泣いて、泣きました。私は早く離婚してと母にせがみましたが、母はなかなか決断してくれませんでした。高校1年生の頃、母子家庭になりました。父親は出ていき、安心できる家庭環境を手に入れることができました。

当時はこんな家死ぬほど嫌だ思っていましたが、もしもそのような家庭環境ではなく、普通の家庭だったとしたら、今の私はここまで強く成長していなかったでしょう。周りの友達に比べたら、我慢しながら、苦労しながら生きてきたかもしれません。今の悩みである「自分を出せない」のは、家庭環境から作られたものなのかな?と考えたりします。現在は両親から仕送りはもらっておらず、奨学金と自分で稼いだアルバイト代のみで生活しています。自分だけの力で生きていくって、しんどいなあと思うこともありますが、大学の授業料が免除されたり、給付奨学金をいただけたりと、それなりに良い面もあります。手続きは本当に大変ですが。これは神様から与えられた試練だと考え、頑張ることができています。母は父の分まで愛情を注いでくれました。ですので私は自分を不幸な人間だと思ったことはありません。母、弟、友達、その他色んな人たちのおかげで私は楽しく生きることができました。

母はよく、「人のために生きなさい」と訓えてくれます。なので、私もその訓えに従い、生きています。人に頼られると嬉しいし、この人のために何かしてあげたい、と思います。実際に、人から頼られることは多いです。何も努力をしていない人に頼られるのは御免ですが、頑張っている人に対しては私にできることはないかな、一緒に頑張りたいな、と思います。これからもそう生きていきたいです。


2. 保育園~高校時代

小さい頃のことはよく覚えています。母に、「何々ってあったよね?」と言うと、よく覚えているねえと驚かれることが多々あります。家庭環境もあってか、小さい頃から遠慮や我慢をする子だったと思います。あまり自分から動くことはなく、周りの状況を伺いながら行動していた"つまらない"子どもだったと思います。

小学校に入学しますが、1、2年生の頃はあまり馴染めず学校をサボることがたまにありました。しかし3年生になってからギターを弾くのが上手な優しい男の先生が担任になってからは、毎日学校へ行くことができるようになり、自分を少しずつ出せるようになっていった気がします。4、5年生では「自主学習」にハマっていました。1日1ページで良いのですが、先生に褒められるのが嬉しく、また競い合う友達の存在もあり、何ページも書いていました。6年生では最後の最後に仲の良い友達と大喧嘩をし、非常に寂しい卒業式となったことを今でも印象強く覚えています。

中学校に入ってからは、吹奏楽部に入部しました。希望はクラリネットやフルート、サックスなどを吹きたかったのですが、小学生のころよく遊んでいた太鼓の達人で鍛えたリズム感が評価され、パーカッション(打楽器)に抜擢されました。女の世界は怖いです。3年生の先輩たちと本当に仲が悪く、いわゆるイジメがありました。縦だけでなく、横=同級生でもそのような人間関係の問題が本当にたくさん起こりました。何度も何度も辞めたいと思っていました。20人以上いた同級生の部員は気付けば半分ほどに減っていました。でも私が最後までやり遂げられたのは、仲の良い友達がいたからです。二人でよく辞めたい辞めたい言いながら帰った日々を思い出します。

中学校1年生の頃は、真面目に勉強に取り組み、良い成績を修めていました。しかし2年生に上がり学校生活にも慣れてきて、徐々に成績は落ちていきました。周りの友達は塾へ通い始め、みるみるうちに追い抜かれていきました。焦りを感じた私は2年生の終わりの春期講習から、塾へ通い始めることになります。塾ってどんな感じかな、と試しに行ってみたつもりだったのですが、とても楽しく、塾の勉強方法が私にピッタリとハマりました。元々家から近いからというしょうもない理由で行く高校は決めており、その高校のレベルにはすぐに達したのですが、勉強に楽しさを見出した私はさらに「首席で合格する」という目標を立て、どんどん成績を伸ばしていきました。毎日何時間も勉強していましたが、全く苦ではありませんでした。

春になり、私は見事首席で高校を合格することができました。入学式の首席挨拶は緊張で一文字目から噛んでしまいました(笑)。しかしこの経験は、私の20年間の人生において最も誇れるべきことかと思います。今後はこれを超えるような大きな目標達成をしたいです。

中学生で、部活内のドロドロの人間関係を目の当たりにした私は、高校では絶対に部活に入らないと決めていました。その代わりに、ピアノ教室に通い始めます。自分が保育園児の頃からの夢だった、「保育士」という夢に少しでも近づくためです。ピアノは、小学生の頃も少しかじっていたので、「最初のうちは」あまり苦に思っていませんでした。しかしここでも、つまづきます。私は中途半端が嫌いで、何でも完璧にこなしたいという人間です。なので完璧に弾けるまで練習をたくさんして、自分で自分を追い込んできました。それが自分にとって負担となっていきました。しかしここでも、友達がいたから私は頑張ることができたのです。彼女も同じ幼稚園の先生になるためにピアノを頑張っていました。彼女は私と正反対の性格で、間違えてもへーきへーき!という非常に楽観的なタイプです。彼女に救われ、受験勉強で忙しくなる直前まで、約2年間通い続けることができました。

そこからは、大学受験に向けて勉強、勉強、勉強の毎日です。ずっと保育士の夢を追いかけてきましたが、2年生の終わりに行われた二者面談で担任に「本当に保育士でいいのか、保育士は給料が…」という現実を突きつけられました。その時はお金が全てじゃない、何てこというんだとムカっとしましたが、その一言で私はもう一度自分の将来について考え直すことができました。今では感謝しています。結果、短大という保育士一本の道に行くよりは、より選択肢のある4年制大学に行くことに決めました。

実家が嫌で、一人暮らしをしたかったので①県外であること、あまり遠くには行きたくないので②九州内であること、私立に行くほどの経済力はないので③国公立であること、などの条件を踏まえ、当時の高校の担任に相談し勧められた大学が、長崎大学の経済学部でした。どのような大学か調べる中で、「国際ビジネスプログラム」というものがあることを知りました。それはグローバル人材育成を目的とするプログラムで、それを通して留学をすることができるというものです。経済に興味があった、というよりは、この国際ビジネスプログラムに入りたくて受験を決めました。

高校受験は楽しかったですが、大学受験は地獄のようでした。その違いを、昨日面談をする中で考えました。違いとは、「目標が定まっているかどうか」でした。前者は、中学に入学したときから目標の高校は決まっていました。が、後者ではセンター試験直前まで悩んで目標を定めることができませんでした。私に必要なのは「目標」だったようです。20歳になった時、14歳の私からの手紙を読みましたが、その手紙にも「目標を作れ」と書かれていたのを思い出しました(笑)。ただ、大学受験のときもし目標がはっきりとしていたら、今の自分はなかったのだろうと思うと、それもそれで良かったのかなあなんて考えました。


3. 大学時代

入学してからすぐに、野球部にマネージャーとして入部しました。マネージャーは私と、1つ上の女性の先輩の2人だけでした。初めのうちはとても楽しかったです。しかしそのもう一人のマネージャーの、サバサバしている感じがどうも苦手で、上手くやっていくことができませんでした。結局、半年ほどして私は部活を辞めてしまいました。もちろん、彼女を理由にするのはただの言い訳です。私は一人で解決できる力を持っていませんでした。あの時、誰か一人でも、支えてくれる人がいたら今でも私は続けていたかもしれません。しかし社会に出れば、このように誰も味方になってくれない状況も出てくるでしょう。そうなった際に、何とか一人でも乗り越えられるように、これから色々苦労をして、より強い自分にならなければなりません。


国際ビジネスプログラムの活動は、1年生の後期からスタートしました。講義は全て英語で行われます。英語でのレポート提出やディスカッション、プレゼンテーションなど初めは慣れないことばかりで本当に大変でしたが、だんだんとそれ以上にやりがいや達成感を感じ、自分の英語力に随分自信がついていきました。同じ留学という大きな目標を持つ仲間の存在も大きく、刺激し合うことができました。

1年次の終わりには台湾で海外研修が行われました。10日間という短い期間でしたが、自分の将来や日々の学習の在り方について考え直す良い機会となりました。また英語だけでなく中国語の重要性にも気付き、現地の学生と日常会話や討論をするために中国語の勉強をもっと頑張りたいと思うようになりました。

2年間のプログラム活動を通して、たくさんの友達や留学生、教授と話したり英語で授業を受けたりしたことで異文化に対する自分の考えが大きく変わり、英語は勉強のためのものではなくコミュニケーションをとるためのツールなのだということを強く実感しました。今年9月からは台湾への留学を予定していました。台湾を選んだ理由は、高校の修学旅行・大学の研修で渡航した経験があり、台湾という国・人々に親しみを持っているという点が一つ。英語だけでなく中国語も学べるという点、またヨーロッパの国々に比べ費用がかからないという点などが挙げれらます。

留学に行くには、その大学の掲げているTOIECの点数を取らなければいけません。当時、私の点数と目標となる点数は200点ほど離れていました。そのための勉強をしないといけないということは理解していましたが、なかなかやる気が出ませんでした。しかしプログラムの授業では一生懸命頑張っていたこともあり、その成果が点数にも表れ、何とか目標の点数に到達することができました。自分の頑張ってきたことが初めて、形となって目に見えた瞬間でした。

留学という大きな目標に向かって2年間頑張ってきましたが、その頑張りもむなしく、コロナの影響で延期という形になってしまいました。もう留学は諦めるか、留年して留学するか、休学するか、就職浪人となるか、自分の中で色々な選択肢を考えに考えました。今までの私にとって就活は大きなものでした。しかし考える中で、めちゃくちゃ頑張って就いた職でも、一生そこで働くかは分からない、だったら今しかできない留学の経験をするべきだという結論に至り、来年2月に延期するという形をとりました。しかし2月からとしても、行ける可能性は相当低いのではないかと考えています。どうなるのでしょうか…。


バイトについて。1年生から、和食レストランのホールスタッフとして働き始めました。初めはよくミスをしましたが、当時の店長は私をよく助けてくれました。彼のおかげでアルバイトはとても楽しいものであり続けました。感謝しています。メニューを覚えるために、お店のホームページからメニューを印刷して切り取って、表は料理の写真、裏には料理名を書いて必死に覚えました。本当に、私は完璧主義者で、負けず嫌いで、そのための努力を惜しまない人間なんだなと思いまし。バカ真面目ともいいますね。そんな自分がために嫌になることがあります。適当さも身に付けたいところです。

約1年後、仕事にも慣れ、仕事内容に対し時給が見合っていないという不満を抱くようになりました。ちょうどその頃、そのお店の2号店のようなものがオープンするという話を聞きつけました。オープンスタッフとして何か得られるものがあるのではないか、新しいことに挑戦してみたいと思い、また時給もそちらの方が高かったので私はそちらへ移ることを決めました。そのことを店長に伝えた瞬間、面白いくらい態度が急変しました。私に対して本当に冷たく、笑顔を見せることもなく、本当に悲しかったです。ああ人って100%信頼しちゃいけないんだと学んだ良い経験となりました。

2号店に移ってからは、仕事内容はそれほど変わらなかったのでアルバイトでありながらも社員さんやパートの方にベテランとして頼られました。前のお店よりも働きやすく、楽しくバイトをすることができました。元々前のお店で付き合いのある、今のお店の店長には、「○○さん(私)ってよく周りが見える人ですね、ここまでとは思いませんでした」というありがたい言葉をいただきました。幼いころから周りを気にしていたおかげかな、なんて思いました。成長するにつれてさらに加速したようです。周りを気にするのは良いことですが、疲れるときもあります。バイト中は気にかけられるのはいいことですけどね。

ただ、最近は社員さん、パートの方に頼られることが多く、しんどくなってしまいました。辞めることも考えましたが、2年間必死に頑張ってきたので自分なりにプライドというものがあり、とりあえずはシフトを減らしました。悩んでいることを皆さんに伝えると、皆さんはそこまで悩んでいるとは思っていなかった、頑張り屋さんだから頼りすぎてしまったと謝られました。人に頼られるには好きなのに、いつの間にか苦になっていたようです。仕事となると、プレッシャーの大きさも違います。今は楽に仕事ができているので、徐々にシフトを増やしていこうか、また頑張ろうかと考えているところです。


4. これから

まずは、台湾への留学を実現させたいです。日本国外に赴いて今までの2年間の学習成果を試すチャンスであり、英語・中国語の語学上達はもちろん、さらに国際的な知識・理解を深め、サークルに所属したりインターンシップに参加したりして多くの人たちとの繋がりを作り、日本ではできない経験をたくさんしたいと考えています。様々な困難にぶつかることが予想されますが、それらを自分の力で何とか乗り越え、もう一回り成長して日本に帰国したいです。今からとても楽しみにしています。

就職に関しては、私は国際分野、特に難民や移民に興味があるので、彼らを支援できるNGOや国際支援団体で働きたいと考えています。現在どのような就職先があるのか調べているところですが、希望勤務地の熊本ではそもそもの母数が少なく、難しそうです。まずは自分のしたいことを仕事にしたいと考えているので、熊本ではないところでも働く覚悟でいます。それでダメだったら、熊本に帰ってきて何らかしらの仕事をしようかな、というくらいに考えています。

また、現在の自分の最大の悩みは「自分に自信が持てない」ということです。これから、この悩みを解決すべく様々なことに挑戦して、自分自身をもっと磨いていきたいと思っています。


5. 最後に

もし、私のnoteをここまで読んでくれた方がいましたら、心より感謝します。文を書くのは苦手で、初めは自分についてなんて書けないよ!短く終わらせよ!と思っていましたが、書き始めると案外かけるものなんですね。手が止まりませんでした。こんなに書けるとは思っていなかったので自分でも引くくらい、驚いています。力を入れ過ぎました…。途中でこんなに書いていいのかなと不安になりました…。しかし、自分とは何か悩んでいる最中の私にとっては、これまで、そしてこれからを見直す良い機会となりました。

総括して言えるのは、私には一緒に頑張る「仲間」と、具体的な「目標」が必要だということです。どうしても人間関係に悩むことの多かった私は、友達なんてたまに会って話すくらいでいいなんて馬鹿げたことを思っていました。しかしこのnoteを書いてみて、私の今までの人生で、「友達」という存在がどれほど大きいものだったのか、どれほど助けられてきたのか、痛いほど分かりました。

それと同時に、「目標」があれば私は頑張れるんだということも分かりました。今の私は、目標がもやもやとしています。この夏休みのうちに、具体的な目標を決めようと思いました。

ありがとうございました。


追記 (2022/3/7)

この記事を書いて約1年半が絶った今日、noteから「スキ」のお知らせメールが。ああ、久しぶりにいいねしてくれた人がいるんだと。あれ?でも「コメントのお知らせ」「フォローのお知らせ」も来ている。誰かが文句でも言いにコメントしたのかな?恐る恐る見てみると…

小学校時代に仲が良かった男の子でした!!!びっくり。コメントに書いてありますが、彼は小学4年生の時に転校しており、連絡先も知らないままそれっきりになっていました。少し話した後、LINEで繋がることができました(現在そのコメントは削除済です)。

こんな形の再会に驚くとともに、インターネットのあるこの時代に改めて感謝しました。あぁ、noteでこの記事を書いて良かったなと。同時に小学生時代の思い出もたくさんよみがえってきて。私たちはどうしても、目の前の「今」に必死になって「過去」の思い出を忘れがちになってしまう。けれど、良い意味でも悪い意味でも思い出は変わらない。決して変わらないものとして、思い出は今の私たちを支えてくれているんだと、そんなことを自分の中で考えたものです。

皆さんも、noteを書いたらずっと連絡をとっていなかった友人からコメントがあるかもしれませんね。(勧誘みたいになっちゃった)


折角、追記のために記事の編集をしているので、今の私について少し書きたいなと思います。

まず、台湾への留学は諦めました。予想以上にコロナが長引いてしまい、様々なことを考慮しての決断でした。就活浪人や留年も考えました。でも、それまでに就職先が決まってしまい、留学とそれ以外のことを比較した時に後者の方が私にとって大切なものだったのです。留学や英語へのモチベーションがなくなってしまったことも原因でしょう。

しかし、留学を諦めたことで落ち込むことはありませんでした。もちろん、留学すれば新しい友人が増え、色々なことを経験し、今とは違う自分に成長していたかもしれません。でも、私はそれまでの過程が重要であったと考えるようにしたのです。「国際ビジネスプログラム」での経験は、私の大学生活、ひいては人生においてかけがえのない経験、思い出となりました。本当に大きく成長したと思います。留学という同じ目標を目指し、ともに奮闘したプログラムの仲間に出会えたことも同様の価値がありました。

また、今は地元の熊本に戻っています。就職活動を熊本ですること、また長崎での対面授業が(ほぼ)なくなり長崎にいる必要がなくなったこと、そして熊本に住む恋人が一人暮らしを始めるため一緒に住むことにしたからです。やっぱり熊本はいいですね。落ち着きます。

就職活動も、卒業論文も、本当に大変でした。ギリギリにならないとやらない私の性格のせいだけど。しかし、どちらも納得のいく形で終わらせることができました。

少し恋人について書かせてください。この記事を書いてから少しして、恋人ができました。同じ中学校の同級生で、中学3年生の時に1か月ほど付き合っていたのですが、それ以降連絡をとることはありませんでした。同窓会で会っても写真を撮り、送り合うだけでした。

きっかけは、私がインスタグラムで、好きなゲームのBGMを聴きながら勉強すると捗る、という内容のストーリーをあげたことでした。(Life is Strangeというゲームです。簡単に言うと時間を巻き戻す能力を手に入れた女子高生のお話。ストーリー系のゲームです。本当に面白くて感動するゲームなので、気になる人はぜひ調べてみてください。)

そこに彼がDMを送ってきて、しばらくゲームの話をしました。あるゲーム実況者がちょうどその頃Life is Strangeを配信しており、その配信で彼はこのゲームを知ったようです。私はそれよりずいぶん前から知っていました。

私の一番好きなゲームを知っている人がいるということにまず嬉しくなり、そこから中学校時代を思い出して、彼に会いたくなった私はそう伝えました。この時は全く恋愛感情のなかった私ですが、彼といる時間はとても楽しく、何回かのデートを経てお付き合いすることになりました。

ある意味、偶然が積み重って付き合うことができたなと思います。私がインスタグラムにストーリーをあげなければ。実況者が配信していなければ。コロナがなければ。私がそもそも留学に行っていたら。彼が愛知勤務のままでいたら。…たらればですね。でも、そんなことを考えてしまいます。彼と再会できたことについてのみ、コロナにお礼を言いたいと思います。

今は付き合って2年半、一緒に住んで2年になります。本当に、彼には心から感謝しています。お互いの仕事が落ち着いたら結婚したいねという話もしています。彼は高校卒業後、社会人として働いていますが、私は今年から社会人になりました。共働きになることでまた新たな問題も生じてくると思いますが、今までのように二人でちゃんと話し合って解決し、二人で頑張っていきたいと思っています。

新社会人、頑張ります!!

では、また。気が向いたら追記しますね。

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