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信頼の定義について考えてみた

私は昨日の記事に書いたように、大事にしている最上位概念は「平和と安心」だ。

しかし、これまで長年の不動の最上位概念は「信頼」だった。
なぜ変化したのか、考えてみようと思った。

今もベスト3にはいるが、1位ではない違いは大きい

振り返ると、私は「世の中全員敵」という刷り込みで育ってきた。
父がそういう考えだったのだ。過去に何をされたのかは知らないが、「自分の身は自分で守れ」「他人を信用するな」「結局自分の都合で簡単に裏切る生きもので責任なんてとってはくれない」何百回と聞いた言葉だ。

すっかりそうだと信じ込んでいた私は、どこか冷めていたし、純粋な優しさも素直に受け取れず、根本的に人は好きだが、心底では「恐い」「怪しい」と思ってきた。

何が恐い?

裏切られたときに傷つくのが恐かったのだと思う。
そして奪われる感覚が恐かった。

信頼って何?

私は信用と信頼は違うと思っていて、
信用は比較的簡単にできる。なんなら基本装備されているくらいカジュアルなものだ。

一方で信頼はごく限られた人にしか私はできていない。


・決して簡単に築かれるものではない。
・言葉と行動が一致している人。
・誠意があって自分にも他人にも正直な人
・万が一裏切られるようなことがあっても何かワケがあるんだろうなと許せるような人


これらがパッと思いついた。
それらが日頃の付き合いを通して明確な指標があるわけでもないが、積み重なっていくような感じ。


そんな尊いものだからこそ、数は決して多くないし、ずっと上位だったわけだ。


その概念が変化を見せたわけだが、なぜだろう?
こう考えてみた。


裏切られて失うものってなんだろう?

ケースバイケースだが、失って最も具合が悪いのは命だ。
でもそれ以外は失くしても自分でなんとかできるのではないかと思えるようになった。いや、正確にいうと、そうとも考えられるようになった。

それはきっと、失敗は恐いものではなく、フィードバックだと思えるようになったことにつながっているような気がする。

もちろん、信頼していた人に裏切られるのは悲しい。
でも、それは相手を責めることに意味はなくて、
自分が信じた道が間違っていたという結果が分かったということ。

傷つくし、回復に時間もかかるけど、失敗も似ているなと。

そう思うと、傷つくことを恐れて動かないでいるより、
何かしらの結果を得られた方が人生は濃くなるんじゃないかと思うようになった。

つまり

「信頼」が最上位概念だった頃は、「恐怖」とか「失いたくない」という負の感情からきていた。

今は、(本当は世界中が平和になるといいなと思うけど、現実的にはなかなか難しいので)自分にできる範囲で平和な世界を実現したいという目的思考からきているんだなと書いていて気付いた。


信頼に限らず言葉の定義って人や場合によって違うもの


今回あんなに大事にしてきた「信頼」が決して下がったわけではないけど、それを上回るものが出てきた理由が知りたくて書き出してみた。
すると自分の心境がどのように変わったかについて知ることができて興味深かった。
他にも大切にしている価値観についてまた機会があれば掘り下げてみようと思う。

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