12という数字

12ステップ、と聞いてピンと来る人がどれだけいるだろう。12ステップ、今日一日、無力、生き方の棚卸し、先行く仲間、ハイヤーパワー。これらは自助グループにつながってから知った言葉。精神科医には精神科医だけに通じる共通言語があるように感じてきたが、自助グループには自助グループの人達しか使わない新しい言葉があった。

自助グループの価値をどう伝えたらいいんだろう。自助グループを人に勧めることって意味があるのだろうか。誰に言われるでもなく自分で探し出してそこに行くからこそ意味があるのではないか。勧める時はどのように勧めるべきなのか。自助グループの伝統として、「われわれの広報活動は宣伝により促進することよりも、ひきつける魅力に基づく。新聞・電波・映画の分野で、われわれはいつも個人名を伏せるべきである。」という文があった。その解釈をふとした時に考えてしまう。

自助グループの閉じた感じが好きだった。それは例えば”精神分析”とか”1回1万円以上のカウンセリング”がそうであるように、知る人ぞ知る、というか、本当にそれを求めている人だけがつながる場。その人達はその良さを他人にうまく説明できない。説明を放棄している。自分達だけがその良さを本当に理解していたらそれでいい、むしろ簡単には他人には分からないだろう、分かられたくない、傷つきたくない、と思っている。無理に伝えようとすると自助グループで共有しあった大切な空気感が台無しになるような気もする。誰か大切な人が亡くなったことを誰彼かまわずに言えない、言いたくない、というような感情に似ている。ネット、SNSが普及しすぎて、手軽さ・気軽さが自助グループの伝統を変えてしまわないか、価値を下げないか、ずっと不安。

でも必要な人がもっと自助グループにつながれたらいいのに、と思う気持ちもある。精神科の予約は混んでいてすぐには取れないご時世だし、少しでも選択肢が増えたほうがいいとは思う。閉じた安全感に安住するのではなく、広がっていけたらいいんだろう。大切な理念が変わらないままなら。

安全な場でつらかった記憶を繰り返し語ること、仲間の話に耳を傾けることで物語は変化する。自分のことを正直に話すことができたら変わってく。世の中にはありえない本当の対等性。それが自助グループで感じたことだった。

以前、対等って安心できるなあ、対等って何なのかな、とつきつめてたら、自分と患者さんの椅子を全く同じにしたくなった。今まで勤務した病院では、全く同じ椅子が診察室に2つ以上あればそうしていた。無くてできない時は、自分が丸くて回る背もたれのない椅子(おそらく患者さん用として置かれてる椅子)に座って、患者さんには背もたれありの立派そうな椅子に座ってもらっていた。開業してからは、椅子が1つだけがシェアオフィスの備え付けの物で、もう一つは買わなくちゃいけなかった。そのため全く同じ物を探し出して買うことができなくて、仕方ないのでできるだけ似た椅子にした。

昨年開業したシェアオフィスがたまたま012号室だったので、自助グループの12ステップを思い出した。自助グループに通った頃に引き戻されたような不思議な感じがした。どこまで行ったって私は急に純な専門家としてだけ存在できるはずなくて、当事者側だった自分も生きてるよ、そのままの自分で精神科医っていう仕事をやってみてもいいよ、と背中を押された気がした。

虐待やDVを受けてきた人達は、いつも対人関係が上下関係になってしまう。精神科に来てまでそれをしてほしくないから、できるだけ対等、できるだけ双方向な対話になるように、話しやすい環境にしたい。

これからも本当に思っていることだけを書きたいし話したい。借り物ではない私の言葉で。

12か月で季節は一巡する。12は人が新しく生まれ変われる数字。

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