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手仕事のまち、すみだ ―北斎の心を受け継ぐ職人たち

すみだは手仕事の街だ。

浅草の喧騒からひとつ川を隔てた先に、江戸から続く職人の街がある。小さな町工場がひしめく通りに金属音が響きわたる。製本屋からはインキの香りがただよう。作業場と道路をフォークリフトが忙しく往復する。

すみだは隅田川の水利を生かし、産業の中心として発展してきた。日本の消費財発祥の地として、アサヒビールやカネボウ、セイコーなどの企業を輩出した。また葛飾北斎をはじめとする芸術家や、腕利きの職人たちも生みだした。北斎はすみだに生まれ、90年の生涯の大半をこの地に暮らした。

芸術家として名高い北斎は、誇り高き職人でもあった。70年にわたるキャリアのなかで、浮世絵はもちろん、本の挿絵や着物の文様、櫛などのデザインまで行っている。絵師でありながらイラストレーターであり、デザイナーでもあったのだ。そんな彼は作品のなかでさまざまな職人を描いている。大工、木挽き、染物師、彫師、人形売り−−。これらのなりわいは形を変えて、現代のすみだに受け継がれている。

すみだの職人と出会った日のことを、今でも思い出す。

新卒で映像プロダクションに勤めていたときのこと。顧客から変わった問い合わせがきた。「色紙を300枚作りたい」というものだった。映像会社だから色紙づくりのノウハウなどないけれど、上司に相談したら受けようということになった。顧客の要望を聞き取り、知り合いの印刷業者に発注した。数週間後、納品されてきた商品を見て言葉を失った。色紙の色柄が、こちらの希望とはまったく違うものになっていたのだ。経験の浅さによる痛恨のミスだった。
 
上司にこっぴどく叱られ、途方に暮れた私は、急いで別の発注先を探しはじめた。タウンページを開き、「印刷業」の欄にある会社へ片っ端から電話をかけた。最初はどこも取り合ってくれたが、納期に話が及ぶと口を閉ざされた。

「五日ですか、うちではちょっと」
「せめて一週間あれば……」

朝から電話をかけ続け、結果は全滅だった。

その夕方、私はすみだの街をさまよっていた。見かねた同僚が「東京で紙製品といえば墨田区」だと教えてくれたのだ。地下鉄を乗り継ぎ、たどり着いた頃には薄暗くなっていた。駅を出て歩きはじめると、たしかに「印刷」とか「紙業」と名のつく会社があちこちにあった。それらに片っ端から飛び込んでいくことにした。突然現れた若者の話を、職人たちは驚くほど親切に聞いてくれた。しかし色紙を作ってくれる所にはなかなか出会えなかった。

そんななか、ある町工場に足を踏み入れた。中ではハチマキを巻いた職人がローラーを回していた。作っていたのは、駅のホームなどでよく見かける大型看板だった。ローラーを回すたび、大判紙が分厚い板に寸分の狂いもなく張り合わさっていく。ここへきた理由などそっちのけでしばし見入ってしまった。しばらく会話をしたあと、彼は紙切れに社名と住所を書いて渡してくれた。御礼を伝え、その場所へと急いだ。

ビルにはまだ明かりがついていた。呼び鈴を鳴らすと、作業着に身を包んだ社長が出てきた。私は滔々と事情を語った。ひとしきり話し終わると、社長は口を開いた。

「三日でやるよ」

三日後、大量の段ボールがオフィスに運び込まれてきた。駆け寄って中身を開くと、そこには想像以上に美しい色紙がすきまなく詰め込まれていた。薄いぼかしが入ったクリーム色の和紙に、金縁があしらわれている。手品でも見ているような気持ちになった。

北斎は百数十歳まで生きることを望んだという。「九十歳で絵の奥義を極め、百でそれを超越し、百数十歳まで努力すれば絵に命を宿らせることができるだろう」と自ら書き残している。その願いは別の形で聞き届けられたのかもしれない、と思う。

北斎が終生つらぬいた努力と探求心は、世代を超えてこの街に受け継がれている。不断の努力で技術をいぶし銀に磨き上げ、新たな価値を追求し続けるすみだの職人たちの姿は、北斎の生き方と重なる。

今日もすみだの街角には布編み機の規則正しい音が響き、織り上げられたメリヤスの繊維が風に舞う。この街の誰かの仕事が、今日も誰かを救っている。

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