shiori

脚本家を夢見ている。 軌跡の記録。

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最近の記事

水は海に向かって流れる

このマンガがすごい!20214位。 わたしは空き時間があるとふらっと本屋に立ち寄って文庫本やマンガを眺める。 ある日、美容院までの待ち時間に立ち寄った本屋で『水は海に向かって流れる』が目に入った。Twitterで話題になっていたのは知っていて、絵柄も可愛らしいもので、気づけば平積みされていた全3巻を持ち、レジに向かっていた。 高校の進学を機に叔父の家へと住むことになった直達。しかし迎えにきたのは見知らぬお姉さん、榊。叔父はルームシェアをして暮らしていたのだ。直達と榊はあ

    • 片道10km、自転車を漕いで映画

      中学生の時、映画を好きになった。 きっかけは曖昧だけれど、いつかの金曜ロードショーで『MIB』を観た時のワクワクドキドキが鮮明に印象に残っている。その時の感覚を体験したくて映画を観るようになったのだろう。 しかし私の住んでいた街は、映画館のある大きな都市に出るまで電車で片道400円往復800円がかかる。中学生には大きな痛手だ。そこで私は友人と片道10kmあるイオン系の映画館に自転車で向かった。 田んぼのあぜ道を駆け抜けながら「スタンドバイミー」みたいだねと帰り道に夕日を

      • このご時世、発熱をするということ

        4月上旬に、発熱をした。 「あ、喉が痛い」これ熱が出るやつだな…と思い、上司に連絡を入れた。万が一なにかあってはいけないし気にせずに休んでと返信がくる。 早めの対処だと思い、熱を測る。平熱だった。病院に駆け込んで診断をしてもらう。味覚は嗅覚は?という問診、喉が腫れているので扁桃炎ですねと診断を受ける。 とりあえずほっとする。 基本的に1年に1回は熱を出していたが、去年は熱を出さなかった。というよりもだせなかったというのが正しいのかもしれない。 もしかしたら…という可

        • あのこは貴族

          3月上旬、出歩くのもほぼしていなかった私はこのまま部屋に居続けても気が狂う…しかし飲みに行くのも買い物に行くのも、このご時世目的もなく出歩くのは如何なものか。 そうだ、映画を観に行くかと思い立ち、新宿シネマカリテで映画を鑑賞した。 『あのこは貴族』 《同じ空の下、私たちは違う階層(セカイ)を生きている。》 東京に埋めれ、箱入り娘として育てられた「結婚が幸せ」と疑わない華子。富山で生まれた美紀は有名私立大学に進学するが学費が払えずに夜の世界で働くが、大学を中退。 この

        水は海に向かって流れる

          愛してるって言っておくね

          2021年4月26日(月)米アカデミー賞授賞式。 仕事だったので配信では見ていないがTwitterで速報が流れているのを眺めていた。映画の話ができる人が今の職場ではいないので、監督賞が『ノマドランド』だったよとか、たわいもない会話が出来ないのが少し悲しい。 今年はコロナということもあり、Netflix配信の作品が多くあった。映画はもちろん映画館で観たいが劇場に気軽に足が運べないご時世にたくさんの人に作品を観てもらう機会が増えたと考えればマイナスな面だけではないだろう。

          愛してるって言っておくね

          中学生と少年ジャンプ

          中学生の時に、友達に勧められて少年ジャンプを読み始めた。 ONE PIECE、銀魂、NARUTO、BLEACH、家庭教師ヒットマンREBORN!、D.Gray-manが全盛期だったように思う。 地域性もあると思うが、わたしの住んでいた国道沿いだけ栄えているような、閉塞感のある中途半端な田舎では女の子が少年ジャンプを読んでいるというだけで「オタク」認定だった。 鬼滅の刃や呪術廻戦ブームにより「オタク」に優しい世の中になったなと感じるが当時はオタクはスクールカーストの最下層

          中学生と少年ジャンプ

          パーム・スプリングス

          2021年4月24日(土) 緊急事態宣言前の土曜日、新宿武蔵野館にてパーム・スプリングスを鑑賞した。宣言下では映画館(シネコン)は休業要請、ミニシアターは休業協力要請が発令されるようで、映画館にとって大ダメージになる。 映画や劇場は独自の感染対策を行い、クラスターの発生も観測されていない。「不要不急」という言葉が昨年から使われているが芸術は果たして不要不急なのだろうか。人々に感動を与えるという点ではオリンピックも映画も一緒なのでは…? 話が逸れてしまったが、そんなご時世

          パーム・スプリングス

          脚本家になりたい、と口だけだったわたし

          「脚本家」になりたい。 そんな夢を抱きはじめたのは21歳、大学三年生のことだった。 中学生の時からおぼろげながら、映画の道に進みたいと漠然と思いながら、高校生になり進路を決める時に明確に「映画を作りたい」というその思いが強くなっていった。 大学で映画を専門的に勉強していく中で、全ての土台となる脚本に惹かれた。 ”良いシナリオから悪い映画は生まれても、悪いシナリオから良い映画は生まれない” 日本映画の父と呼ばれる牧野省三氏の言葉だ。 全ての映画、映画のみならずドラマ

          脚本家になりたい、と口だけだったわたし