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ガチオタが『トイ・ストーリー4』を見てきた。(後篇)

鑑賞前のお話(前篇)はこちら↓


『トイ・ストーリー4』を公開初日に観てきた。

本当はもう少し早く書き上げるつもりだったのだが、鑑賞後しばらくは、内容を思い出しては泣いて、家にあるおもちゃたちを見ては泣いて、他の人の感想を見ては泣いて、テレビから予告映像や天使のはねのCMが聞こえては泣いて、トイ・ストーリーという文字を見ては泣いて…と、とても向き合える精神状態ではなかったため、少し日が空いてしまった。


まず、ひとことで言うならば、『トイ・ストーリー4』は今までの3作以上に涙なしには見られなかった。
ラストは特にハンカチ必須。しばらく嗚咽が止まらなかった。

※※※※以下、ネタバレが含まれます。※※※※



たしかに、私は目がパンパンに腫れるほど泣いた。
だけどそれは、感動なんかの涙ではない。

"可哀想"という感情から来る涙であり、悔しさから来る涙であり、悲しくて流した涙だ。

『トイ・ストーリー4』は、過去3作で描かれてきたことのほぼすべてを真っ向から否定するものだった。

いつも映画が終わった後は、どの作品でももう少し余韻を感じていたくてすぐに席を立つことはしないのだが、この日は明かりがついた瞬間に劇場を飛び出した。夢なら覚めてほしいとさえ思った。

今回、9年ぶりの続編公開にともなって店中が『トイ・ストーリー』で賑わい、新しいグッズもたくさん発売された。
余程の内容でない限り、『モンスターズ・ユニバーシティ』や『ファインディング・ドリー』、『インクレディブル・ファミリー』の時のように「続編を作ってくれてありがとうございます」という気持ちは自然と沸き起こってくるものだと思っていた。

だけど、鑑賞後に残ったのは、こんな『トイ・ストーリー』は知りたくなかったという思いと、改めて『トイ・ストーリー』は3作で完結していたのだと確信した。



映画の冒頭では、『2』と『3』の間に起きたボー・ピープとの別れの真相が明らかになる。
そして「君はともだち」をバックに、おもちゃがアンディからボニーへと受け継がれる『3』のラストシーンが回想された。

曲が終わると、場面はボニーの部屋。ママが掃除をする間、おもちゃたちはクローゼットに入れられているのだが、掃除が終わった後になぜかウッディだけが置き去りにされる。

ウッディはこの頃遊んでもらえず、体に綿埃まで付いていた。


こんなトイ・ストーリーはいやだ:「ウッディがひどい扱いを受ける」

・ドーリーがウッディに冷たい

ボニーが出ていったのを見計らってクローゼットから出てきたウッディに、ドーリーは「クローゼットを離れてはダメだ」と冷たく言い放つ。
元々アンダーソン家にいたおもちゃたちに対して、デイビス家から来たおもちゃたちは肩身が狭いということなのかもしれないが、リーダーとしていきいきしていたウッディを知っているだけに、すでにこの時点で結構辛かった。

・ボニーがウッディを完全無視

フォーキーの登場を機に、ボニーはいよいよウッディの存在を完全に無視するようになった。
「興味がないから遊ばない」というレベルの話ではない。いつもウッディはフォーキーのそばにいて、明らかに目に入っているはずなのに、まるで見えていないかのように頑として無視を続けるのだ。
それは実に不自然で、意図的にやっているかのようにも見えてきて、だんだんとボニーはすごくいじわるな子なんじゃないかと思えてしまった。

でも、たしかに人間ではなく人形が相手だからいじめているのとは少し違うし、実際に子供ってそういうものなのかもしれない。しれないが、果たしてこの『トイ・ストーリー』で主人公に対してそのような描写が必要だっただろうか。

そもそも、ボニーはそんな子ではないはずだった。
アンディがウッディを手放すのを躊躇いながらも、最後は安心して託すことができたように、ボニーはどのおもちゃも平等に愛することができる子だった。
ウッディを「私のカウボーイだ!」と気に入り、アンディの「ウッディとも遊んでくれるかい?」との問いに頷き、ウッディを愛おしそうに抱きしめる、そんな子だった。

・ウッディが持ち主の家族に顔を踏みつけられる

思わず「ひどい」と口に出してしまいそうになったのは、ボニーのパパがウッディの顔を踏みつけたシーン。それも、2回だ。
潰れた顔を戻す部分がコミカルに描かれていたので、本来あそこは笑いどころとして作られたのかもしれない。しかし、もしそうだとしたら、なんとも悪趣味すぎやしないか。
ボニーもパパも、悪役として作られたキャラクターではない。
『1』でシドが意図的におもちゃを痛めつけていたのとはわけが違う。だから余計に、見ていられなかった。


そして、なによりショックなのが、『3』からこの話までにそれほど時間が経過していないということだ。

ウッディがボニーの隣で寝たとき、おそらくボニーはフォーキーと勘違いしていたのだろうが、ウッディの幸せそうであたたかい表情を思い出すと涙が出てくる。


「ウッディに手を貸さない仲間たち」

ウッディがフォーキーの子守りに奔走しているとき、これまで助け合ってきた仲間たちは誰も手を貸そうとしなかった。
親友のバズでさえ、ウッディの疲れ切った表情を見てからようやく「交代しようか」と声を掛けただけだ。
それはすなわち、ウッディ自身と同じように、みんなも「これはボニーに遊んでもらえないウッディの役目だ」と思っていたからなのだろう。


「納得できる理由もなく、キャラが崩壊している」

前篇に書いたとおり、ボー・ピープが大変貌を遂げたことはすでに分かって覚悟していたことだが、その変わりっぷりも想像をはるかに超えていた。性格や言葉遣いまで、まるで別人になってしまっていた。

ウッディに対して「ただ黙っていればいい」と言ったり、他のおもちゃに紹介する際に「おまけみたいなもの」と言ったり、終始とげとげしい態度が気になった。
バズ以上に長い付き合いがあるからこそのことだとは思うが、私の知っているボー・ピープとはあまりにもかけ離れていた。

それに、持ち主が何度も変わったあとアンティークショップに長いこと置かれていた過去があるとはいえ、かつてウッディや仲間たちと一緒にデイビス家で大切にされていたことまでも忘れてしまったかのような発言が目立った。
『2』で帽子をなくし、キャンプに連れていってもらえないのではと焦るウッディに「ブーツの裏を見て。その名前を書いた子は、帽子があってもなくてもあなたを連れていくわ」と諭したボーはどこへ行ってしまったのだろう。

『4』では、劇中でウッディが「ボーはモリーにとても大切にされていた」と話している。しかし、そのわりには冒頭の回想シーンであっさりと、いとも簡単に他の人に譲られてしまっていた。
そして、その後に何があったのかはボーの口から手短に語られただけで、回想シーンもない。

見た目も性格もこれほどまでに変える必要があったのなら、そうなるきっかけをもっと丁寧に、誰もが納得できるように描くべきだった。

私はとうてい受け入れることができない。


「おもちゃの掟を破りまくり」

前提として、おもちゃたちには人間の前で動いたり話したり、動けることを勘づかれたりしてはいけないという掟がある。
基本的に人間が同じ空間にいるときは動かないが、やむを得ないときでも気付かれないように細心の注意を払って行動する。『トイ・ストーリー』の世界においての常識だ。

だが『4』では、人間の前で話したり動いたりするシーンが非常に多かった。
ボニーや家族と同じ車内にいるのに、寝ているからといって大声で話し、バズは「内なる声を聞いている」と言ってパパやママの前で胸のボタンを連打する。挙げ句の果てにはカーナビの代わりに喋り、運転席にパパが座っているにもかかわらず勝手に車を操縦して警察沙汰にした。

まあ、ウッディの顔を2度も踏んづけたパパなので、警察からお咎めを受けるくらいのことはあっていいと思うが、それにしてもやりすぎだと思った。


「お馴染みのおもちゃたちの存在感がない」

『4』では新しいキャラクターばかりフィーチャーされていて、『1』や『2』からずっと一緒だったお馴染みのキャラクターはほとんど存在感がない。

レックスやハム、スリンキー、ポテトヘッド夫妻らは、ひょっとして片手で数えられるくらいしか喋っていないのでは?と思うほどだ。

そしてそれは、あのバズやジェシーでさえも例外ではない。
この2人はさすがに存在感がないとまでは言わないが、「ここは出番だろう」と思うような役割はボーや新キャラが担っていたため、見せ場はかなり少なかった。

ボーの"強い女性キャラ"はジェシーと被っているし、デューク・カブーンのアクションは本来バズがやっていたようなものだった。
ダッキー&バニーのようなキャラクターはこれまでにいなかったが、レックスやハムやポテトヘッドの会話でも笑ったり和んだりしたかった。

決して新キャラが嫌いなわけではない。ただ、20年以上も愛着のあるキャラクターが冷遇されていたのがとても悲しかった。


「初対面のおもちゃのためにウッディが犠牲になる」

思い出しただけでため息が出てしまう。

ウッディは、アンティークショップで出会ったギャビー・ギャビーに自分のボイスボックスを差し出した。
人間で言うところの臓器移植みたいなものだろうか(トイ・ストーリーの中ではおもちゃに寿命がないので、命に関わる話ではないが)。

ボイスボックスがなくてもおもちゃ同士で会話することはできるが、紐を引っ張って「イーハー!」「俺のブーツにはガラガラヘビ!」のセリフを聞くことはできなくなってしまった。

辛い。本当に辛い。

ギャビー・ギャビーは、たとえボイスボックスが壊れていても、ありのままを愛してくれる持ち主と出会えればよかった。
『2』でウィージーに代わりの喉が見つかったように、直せる可能性はゼロではなかったかもしれない。

そういう結末ではダメだったのだろうか。

たしかに現実はそう甘くないが、ディズニー映画で、『トイ・ストーリー』で、厳しい現実を見せる必要があるのだろうか。
なぜ、目の前のおもちゃを見捨てるか、自分を犠牲にするかという究極の選択を迫り、主人公が犠牲になる結末にしなければいけなかったのだろうか。

ウッディが古いおもちゃなのに状態が良いのは、アンディがずっと大切にしてきたからだ。
なんで、どうして、ウッディが身を削らなきゃならなかったんだ。

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