日常はアートになりうる
その行為全てが「アート」であるとは思っていないかもしれないが
タイトルの通りですが、瞑想をはじめ、すべての日常はアートになりえる、ということについて。
アートとか、芸術とか、普段の日常とは違う世界の話に聞こえるかもしれないけれど、実はアートの定義次第では日々のあらゆることが「アート表現になりうる」。
その意味では、ビジネスだってアートだし、主婦も素晴らしいアーティストだ。
瞑想もまさにそう。ただ黙って座っているだけ、それのどこがアートなんだと思われるもしれない。
座ってただ気づくところを使っていることは、アーティストのそれと同じセンスを使っているのだと思っている。
「Basic Goodness」本来持っているある種の良さのセンス
なにが日常をアートか、雑多な日常と分けているかというと、ポイントは気づき。「今ここにいる」というセンスだ。
何かを生み出すとき、それが音楽だろうが、ダンスだろうが、ビジネスモデルであろうが、「頭を使って考える」「捻り出す」「効果的になるように計算する」などして生みだすことが多いだろう。もちろんそうやって生まれた商品やサービスなど素晴らしいものがたくさんある。
「私」が持っている意見や、ある種のフィルターがかかって表現が行われた場合、それは「私」の展示になる。
一方ここで言うアートとは、「私」を通過していない。
もちろん多少の意図的さ、つまり絵を書こう、踊ろうなどの多少の意図的さはあるにせよ、そこで表現されているものは「私」を経由していているが「私」経由していない。
ある種本質的な良さの経験の中で表現される。
これを仏教的に言えば「Basic Goodness」という。
若い頃ダンスにハマっていた時期があった。
最近、久々にとある方のダンス動画を見る機会があった。
もう40年近くずっと第一線で活躍されている方だ。
見ると20代の頃のようなキレもパワーも正直ない、派手さもなく、そう言う意味での驚きや見た目のインパクトは少ない。
でもそのダンスはとても軽やかで、音と一体化するような自然さとスムーズさがあり、そこにわざとらしさが一切感じられなかった。まるで、木の葉が風に舞うような自然さというか。
「Don't move to music. Let the music moves you.」
必死に自分を表現するよう悪戦苦闘するのではなく、すでに表現されるものはあって、そこに乗るだけでよいのだ。
これは瞑想の実践と全く同じ領域を使っている。
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