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短編小説/狭間の女

狭間の女


 大学時代の友人のことを思い出していた。大学では比較的長い時間をともに過ごした友人だったけれど、卒業からずいぶん時を経て、今ではモザイク映像のようにその姿はぼんやりとしている。それはそれで、驚異的な記憶力をもって鼻の上向いた角度まで思い出してしまうより趣がある。

 目がふたつ、鼻がひとつに口ひとつ。眉が二本あって、それは繋がることなくちゃんと分かれており、髪は短く明るい茶色だった。そんな彼の名前を思い出そうとしたけれど『○っ君』みたいなあだ名だったことしか思い出せず、私は「あ」から順にたどっていくことにした。

 暗がりの中で考えごとをしていると、目を閉じているのか半開きなのか分からなくなる。まばたきをしてみると、どうやら細く目を開けていたようだった。

 ――あっ君、いっ君、うっ君、えっ君。

 薄い夏布団の中でもぞもぞと体を動かし、ぱちりと目蓋を持ち上げて天井を見つめた。かすかに見える木目はひしゃげた等圧線のようだ。

 ――おっ君。かっ君、きっ君、くっ君。

 カーテンの隙間から入りこんでくる外灯の明かりは、雨のせいか普段よりもいくらか鈍い。天井に描かれているのはどうやら低気圧のようだ。

 パラパラと雨粒が窓ガラスを打つ音と低く唸る機械の音。足先を扇風機の風がなで、私は布団を蹴りあげる。足先、脛、膝。太ももの真ん中あたりから上は布の感触に覆われ、ほんのわずかの間をおいて、首筋、顎、頬とたどった微風は、頭頂部に行き着くまでに逆方向に戻っていく。左手の五本の指で臍、みぞおち、乳房となぞり、めくれ上がったティーシャツはそのままにふくらみをまさぐった。

 ――すっ君、せっ君、そっ君。たっ……。

 背中の下でシーツは捩れ、熱がじっとりとまとわりついてくる。浮き上がった腰が、あえぐように二度上下した。左手で掴んだ乳房、その深部で心臓が鳴り続けている。ずり下ろした下着のなかで右手は動きを止め、細長く漏らした声が部屋の暗がりに溶けた。

 腹をなでた風が下腹部の熱を掬いとり、不意にカチリと音をたてて扇風機は力を失くしていった。どくんどくんと左胸の奥から発する音を体全体で感じながら、深く息を吐いて乱れた呼吸を落ち着かせる。

 部活の終わりにテニスコートの回りを五周走ったあと最後に歩いて一周する、そんな中学の頃の記憶がふわりと頭に浮かんだ。雨音のせいかもしれない。しとしとと体を濡らす霧雨のなか、すぐ目の前を歩く少女の下着が透け、隣のコートで練習をしていた男子たちはチラチラと彼女を気にしていた。

 雨音の向こうに、かすかに車の音がする。シャーッと、水の上を滑るような心地いい音。思わずふふっと笑った。その笑い声に答える相手が隣にいるわけではなく、私はむくりと上半身を起こして電気をつけ、ティーシャツの裾を下ろして下着をあげた。泡タイプの石鹸で手をあらう。からだの芯を駆け抜けた熱はほんの五分もかからず過去のものになった。ぬるい水道水で手についた泡を流すと、かすかに残っていた興奮も消え去った。

 あそこを刺激すれば変な感じがする。そう知ったのはずいぶん小さな頃だ。机の角に押し付けたり、鉄棒にまたがったり、お風呂で直接触ったりしていた記憶がある。いつ頃から罪悪感を伴うようになったのか覚えていないけれど、親には隠していた。性器いじりという言葉を知ったのはずいぶんあとになってからだ。なにかしらのストレスがそういった行動に現れたのだろうと言われればそんな気もするし、自分を慰めるためにしているという点では今も昔も変わらない。幼少期からはじめた自慰行為だけれど、今ではどこか諦めと開き直りがあり、毎月のバイオリズムにしたがって訪れる本能的な欲求を素直に受けとめている。

 そして今、親ではないけれど中学一年生の少女の叔母として、姪は自分があの頃そうだったように人知れず自慰行為をしているのかと考えることがある。小学五年生で生理がはじまり、胸のあたりにたしかなふくらみを持っている姪は、あと数年もすれば性行為を経験するだろう。

 今年の春中学一年生になった姪の学校は私のマンションから自転車で五分ほどのところにある。突然姪がやって来たのは夕立があった日だ。私の休みが毎週月曜だと知っていた彼女は、濡れそぼった制服姿でうちのインターホンを押した。玄関先で「濡れちゃった」と短い髪を撫でつけ、体からはムンムンと熱気が立ちのぼり、半袖シャツの下に水色っぽいキャミソールが透けて見えていた。そういえば、あの時も私は中学時代の部活のことを思い出したのだった。

 雨に濡れたユニフォーム姿の少女の、寒さを耐えるように少し丸まった背中と、スコートからすらりと伸びる二本のしなやかな脚。泥のはねたふくらはぎの筋肉が歩くたびにドクンドクンと脈打つようで、私が彼女に向けているのと同じ視線を男子が自分に向けているかもしれないと思うと、運動とは違う種類の、背徳的な興奮がふつふつと内側に湧き上がってきた。それが性的なものだということもなんとなく分かっていた。

 まだまだ子どもっぽい顔つきの姪を、まわりの男子は性的な興味と好奇の目で見ているのかもしれない。はにかんだ笑顔にチラリとのぞく八重歯や、屈託なくまっすぐ向けられる瞳。内側に渦巻くものを隠し、したたかに無垢を装っているという可能性もある。

 姪は私の出したチェックのワンピースを着、私の貸したビニール傘をさして帰っていった。彼女が部屋に残した青臭い匂い。それは今の私よりもよっぽど男を魅了する。

 姪が私のマンションにちょくちょく顔を出すようになって、私は部屋の隅に置いていた洗濯カゴを脱衣所に移動した。ここ最近の生活の変化といえばそれくらいだ。自分がそれなりに片付いた暮らしをしていたことにあらためて気づく。きっと、散らかし放題の部屋でも気にせずにいられるくらいのほうが他人ともうまくやっていける。床に置きっぱなしの雑誌に苛々したりせず、ペットボトルのおまけでついてくる小さなフィギュアがテレビの周辺を占拠していくのを呆れつつも放っておけるような、そんな性格ならよかった。

 カーテンを引くとそこには変わらず夜の色があり、網戸には数匹の虫と雨の滴がしがみついていた。光に刺激されたのか小さな蛾がぱたぱたと翅を動かし、数センチほど飛んでまた網につかまる。外灯の明かりは落下する幾筋もの雨粒をぼんやりと照らし、濡れた路面をまた一台の車がシャーと音をさせて通り過ぎた。時計を見ると、もうじき深夜二時になるところだった。扇風機をタイマーで二時間後に切れるようセットし、雨音を子守唄に夏布団のなかで目を閉じた。

 目蓋の裏で、○っ君は『人間は歩く性器である』と言う。昔聞いた言葉だ。大学生の私は「俺だって男なんだから、常にエロいことばっかり考えてる」といった意味に捉えていた。けれど彼と私の関係を思い返すと、下ネタばかりを口にしながらも、○っ君が私に性的な意味合いをもって接触してくることはなかった、そう思っている。彼は私にとっては貴重な、開けっぴろげに性の話をできる相手だったのだ。

 私は彼に「女だってオナニーするよ」と酒の勢いで言ったことがある。○っ君は「女がそういうこと言うなって」とゲラゲラ笑っていた。会話は思い出せるのに顔が出て来ないというのは不思議なものだ。彼が一人暮らしをしていたマンションでの会話で、二人とも酔っ払っていて、朝までぐだぐだと過ごし、それでも妙な雰囲気にはならなかった。友人としての彼は気楽で、女友達と○っ君とではノリも違えば話すことも違った。○っ君が男性だったからこそ、私はそんな馬鹿な話をしたのかもしれない。

 恋人とのセックスであれ、それ以外の男性とのことであれ、相手のあるセックスについて女友達と話すことはしばしばあった。それはお悩み相談であることもあったし、悩みを装った惚気や自慢という場合もあった。そんな中で「オナニーする?」と聞いて「しないよ」と眉をひそめられようものなら、どう後を続けていいものかわからない。○っ君なら笑って終わりだし、終わらなければまた別の関係があったかもしれないけれど、実際にそうはならなかったのだ。 

 眠りに落ちると、夢に○っ君が出てきた。相変わらずバカバカしい下ネタを口にしていて、私はたしかに彼の名を呼んだのだけれど、目覚めてみると彼の名はその顔と同じように思い出せなかった。『○っ君』は『○っ君』のままだ。

 以来、よく○っ君のことを考えている。な行だったような気もするし、は行だった気もするけれど、何度「あ」から順にたどってみてもピンと来る呼び名には行きつかなかった。○っ君の存在は二次元や芸能人と比べるとほどよく現実感があり、それでいて生々しさがなく、私は自分の体に触れながら彼のことを考えるようになった。記憶のなかの○っ君は二十代前半で、なんとなく私自身も若返ったような気になる。

 夜以外で○っ君のことが浮かぶのは男性と話をしているときだった。それはたまにしか訪問しない取引先の人だったり、滅多に行くことのない店の店員だったりした。私と同じくらいの年代の男性を前に、「○っ君はこんな感じになっているのかもしれない」という想像から始まり、目の前の男性と○っ君の違いを挙げていき、現在の○っ君の家庭や子どものことに思考が及びそうになったとき、パチンと頭のなかで手を打って考えるのをやめた。○っ君の輪郭はぼんやりしていなければいけなかった。

 ある日の仕事帰り、行きつけの本屋で一人の青年に目がとまった。茶色のエプロンには『立花書店』という本屋のロゴが山吹色の糸で刺繍してあり、ネームプレートには研修中と書かれていた。

 目がふたつ、鼻がひとつに口ひとつ。眉が二本あって、それは繋がることなくちゃんと分かれており、髪は短く明るい茶色だった。少しなで肩で、それと同じくらいの角度で目尻も下がっていた。その微妙な角度が、どっと私を過去へと押し流した。

 ○っ君はなで肩とタレ目を気にしていた。睫毛が長めで、太めの眉は眉間に近くなるほど薄くぼんやりとしていて、眉尻に行くにしたがって濃くなっていた。体つきは肩に限らず角ばった印象がなく、それでいて手の指は太く節くれだっていた。

 ずれたピントが不意にカチリと合い、驚きとともに戸惑いが本屋の彼から目をそらせなくした。あまりにもくっきりとした存在感で、アナログ放送から地デジに移行した頃と似たような違和感を覚えた。それはあまり気持ちの良いものではない。研修中の彼の頬には青春の名残のように凹凸があり、真新しい赤いニキビがぽつりと左の頬骨の上にできていた。名札には『青木史靖』とある。「ふみやす」だろうか。彼はおそらく学生アルバイトで、もちろん本物の○っ君ではない。けれど、このとき○っ君は必要以上の生々しさをもって私の頭のなかに現れた。

 鼻の形はこんなにスッキリとしていなかった。唇ももっと貧相な色をしていたはずだ。耳にピアスの穴なんてなかったし、髪はもっとガチガチに固めていた。

 レジの向こうに立つ彼と○っ君の違いを探していたら、「ブックカバーをおかけしますか」と問われ、「ふっ君がしゃべった」と私は思った。

 ふっ君。ふっくん。フックン。

 それが大学時代の友人である『○っ君』の呼び名でなかったことはたしかだった。ふっ君は慣れない手つきで懸命にブックカバーをかけ、深爪の丸い指先が不器用に紙を折り返した。手は○っ君に似ているかもしれない。かけてくれたカバーは少々緩めのようにも見えたが、ようやくそれが形になると、ふっ君はふいと顔を上げて「袋にお入れしますか」と聞いてくる。

「そのままでいいです」

 ありがとうございます、と言いながら彼はブックカバーのかかった文庫本に輪ゴムをかけ、両手で丁寧に差し出してきた。いつもいるベテラン店員さんがチラチラとふっ君の様子をうかがっていて、私が「どうも」と笑顔で本を受け取ると、ベテラン店員さんはほっと目尻に皺を寄せ、ふっ君はぎこちない笑みを私に向けた。



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