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短編/Spring Has Come

『Because of You』と同じ夜のお話

Spring Has Come

 しんしんと降る雪はあたたかい。

 手のひらに留まるのは刹那、ヒヤリと冷たく肌に染み、滲むようにそれは同化していく。――否、どうかしていくんだ、きっと。

 ドライフィグ&アールグレイ。最近『ティハ』で販売し始めたそのクッキーの売れ行きが上々だ。仕入れていた一キロのドライイチジクが底をつきそうで、同じ商店街には製菓材料を扱う『岡安商店』があるのだけれど、そこのドライイチジクはすこし固い。

 キッチンの端っこで発注をメモした紙片をにらみ、簡易イスから腰を浮かせて手を伸ばす。レーズンの下敷きになっていたトルコ産ドライイチジクの袋を掴んだ。黄褐色のイチジクは思いの外しっとりと潤っていて、日に焼け年を重ねた人肌のようにも見え、小ぶりなものを一つ選んで取り出し、はむりと齧る。

 製菓用ネットサイトで備品を購入する際、「3万円以上購入の場合送料無料」という文言につられて帳尻合わせのように買ったドライイチジクは、あと一回分焼き上げるほどの量しか残っていなかった。

 相談するか、どうするか。二ヶ月ほど前に代替わりしたばかりの岡安若夫婦に相談しても捗々しい答えが得られるとは思えない。

 パソコンのスクリーンセーバーを解除し、メモ書きとディスプレイとに視線を往復させて、買い物かごに商品を入れた。ドライイチジクは二キロ注文することにして、それがなくなるまでに若夫婦との距離を縮めておくことにする。

 旦那さんの方はなかなかどうして男前なのだが、人のものに手を出す趣味はないから、目の保養程度。配達まわりでほとんど店先に立つことがない旦那さんより、親睦が深まるとすれば奥さんの方だろう。

 先代の娘の芙美子さんは美人ではないが、触りたくなるような肌をしている。女性ホルモンの分泌が盛んなのか、そのふくよかな頬を思い出しながらふと自分の手の甲を撫でた。節ばってはいるけれど、水仕事のわりに滑らかに保てているのは誇らしい。

 表面だけが全てではないが表面を取り繕えば救われることもある。労働の対価として手元に流れてきたお金を何にかけるか、それは生活であり生き様だ。とはいえお金で買えるものと買えないものがある。望めば望むほど不足を感じ、削ぎ落としたいものほど身に張りついてくる。

 折れることも必要だ。アイデンテティだのなんだのと主張するより、愛想よく笑顔をふりまいていたほうがよっぽど生きやすい。笑顔には笑顔が返ってくる。例外はあるけれど。

 八百屋への注文書をファックスで送り、パソコンの電源を落としたところでトントンと階段を下りてくる音がした。キッチンに漏れ入ってくる店内の明かりがふっと消え、続いてBGMも途切れた。

 閉店時間を過ぎても居座っていたあの男二人は、もう家に着いただろうか。男同士の気安い関係というのは羨ましく、見ていると釈然としない感情が胸の中を渦巻く。

「塔子さん、もう終わります?」 

 ひと回り年下の高村はまだ学生。

「高村ちゃん、そっちは終わった?」

 キッチンと売り場との境目にあるスイングドアに手をかけたまま、高村は「はい」と無表情に答える。「おつかれ」と軽く手を振ると、彼は背後にやってきて私の肩の上で頬杖をついた。

「今日、塔子さんち泊まってもいいですか?」

「ダメ。明日病院だから」

「病院関係ないでしょ。僕だって明日学校があります」
 
 わがままな子にはバレンタインチョコあげないわよと言うと、そんなものどうでもいいというように鼻で嗤った高村の振動が、心地よく体に伝わってきた。

「塔子さんはチョコもらったことあるんですか?」

「さあね」

 曖昧に返すと高村は深追いしない。踏み込んでくるくせに無関心なのか薄情なのか。

 中学三年のとき女子から渡されたチョコレートはたぶん本命のやつだった。ただ彼女を遠ざけ、卒業式で第二ボタンを下さいと涙目で請われて素直に渡した。

 女子生徒のわずかに膨らみはじめた胸のあたりと、寒さを耐えるようにスカートの裾から伸びた白い足。耐えていたのは彼女ではなく私のほうだ。惨めさと困惑と、行き場のない破壊衝動を押し殺し「じゃあ元気で」と口にして背を向けた。
 詰め襟の学制服の第二ボタン。彼女はまだ持っているのだろうか。

 高村の肘が両肩にのり、頭の上に顎のかたい骨を感じる。「帰ろ」という言葉が、じかに響いた。

 未来ある若者から向けられるのは劣情か情愛か、好奇心か。蜘蛛の巣にかかってしまったのはこちらのほうで、そのハンモックは居心地がいい。跡形もなく高村に食われてしまえば、いずれ新しい糸として彼の体から排出されるのかもしれない。

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