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短編小説/くじら潮流音

それは雲、それは霧、それは僕にしか見えないくじら。くじらは撓り、海へとダイブする。

くじら潮流音/前編


 カーラジオからはビーチボーイズの「ココモ」が流れていた。音はまどろむように耳をかすめ、夜通し運転しつづけた体に心地よく馴染む。

 暁の空は毒々しいコントラストを描いている。青紫と混じりあう橙赤色。幾重にもたなびく筋状の雲は、夜の名残なのか暗く濁っていた。

 開けた窓から冷やりとした潮風が吹き込んだ。雨上がりの路面は時折りジャッと水音をさせ、一日の始まりだというのに気分は安定して低空飛行を続けている。

 フィルターぎりぎりまで短くなった煙草を、吸い殻の隙間を探して灰皿に押しつけた。紫煙とは違う、紙の焼ける匂い。

 目についたガソリンスタンドに入り、吸い殻を捨てた。手のひらサイズの灰皿は、そのなかに四次元空間でもあるのか大量の吸い殻を吐き出した。

 自動販売機でコーヒーを買い、運転席のドアにもたれかかった。

 海の音。
 潮の匂いと、スニーカーの底をジャリジャリとざらつかせる砂粒。

 目の前の国道を、サーフボードを積んだ車が通り過ぎて行った。

 コーヒーを飲み干して運転席に乗り込み、ダッシュボードの底からジャック・ジョンソンのCDを取り出した。彼女が置きざりにしたCDは、車を買い替えた今も変わらずそこで眠っていた。カーオーディオのボリュームを上げ、再び国道を走る。

 彼女の素肌を知ったあの日、僕にはくじらが見えなくなった。遠く遥か意識の外にあるそこへの行き方を、僕は失ってしまった。

 彼女は僕を現実の世界へと繋ぎとめ、僕は大人になり、そしてくじらは消えた。

 きっとくじらはまだこの空を泳いでいる。けれど僕にはそれが見えない。

 きっとそこはまだこの世界にある。けれど僕はそこに行くことができない。

 灰色の筋雲はいつの間にか消え去り、青空とかすれた白い雲が広がりつつあった。対向車線の交通量が徐々に増えていく。日常の群れが僕の車とすれ違い、ベルトコンベアで運ばれて現実へと向かう。

 大きく右にカーブした上り坂のてっぺんで、展望駐車スペースに車を停めた。この坂を下れば僕が育った町へと辿り着く。どうやら、僕が町を出ているあいだに登坂車線が整備されたようだ。

 色褪せた木の柵に手をかけた。岩肌を伝って吹き上げてくる潮風は、低く唸りをあげる。来た道をなぞるように海岸線に目を滑らせ、水平線をぐるりと見渡し、雲を見上げて深呼吸した。

 そこにあるのはただの雲だった。動いてはいるけれど風に流されるばかりで、意思の欠片もない。

 海に背を向け柵に背をあずけた。車の行き交う国道の向こうには緑の木々。視線をずらして向かう道の先に目をやると、遠く丘の上には三つの風車があった。

 くじらは潮を吹き、風車を回す。そして自らその流れに乗って天高く浮上する。町をすっぽりと覆い尽くしてしまうその巨体は、軽やかに雲の波間へと泳ぎ出し、青空に身を晒した瞬間、解き放たれたように海へとダイブする。

 そこへ行くにはくじらの背に乗らなければならない。

 どこか自分の深いところから湧き上がる確信は、いつの間にか僕自身への懐疑を伴うようになった。
 僕は、頭がおかしいのかもしれない。



 坂を下りてしばらく車を走らせ、コンビニに入った。駐車場には普通車用スペースが六台。左右それぞれの端に軽トラックとSUVが停まっていた。建物の裏手にはトラックが二台。

 僕は国道を入ってすぐの、歩道に近い場所に車を停めた。道を挟んですぐそこに砂浜が広がっている。目の前には海があった。

 横断歩道はなく、少し先に歩道橋が架かっている。形は昔と変わりないが、以前は陰気臭い薄青緑だった歩道橋は、こげ茶色に塗り直されていた。歩道橋の下にあったバス停はなくなってしまったようだ。

 コンビニも様変わりしていた。目の前にあるのは大手コンビニチェーンの青い看板で、窓ガラスの向こうに見慣れた制服姿があった。街中のコンビニと違うのは入り口に風除室があることだ。その違いを現実逃避のとっかかりにする。

 ここに、僕の日常はない。



 元々この場所には『西川酒店』という酒屋があった。小学校の頃、僕は歩道橋の下でバスを降り、酒屋の前にアイスクリームが売られているのを横目に見ながら家まで駆けた。子どもの足で十分。じいさんの機嫌が良ければ小遣いをもらい、自転車で酒屋へ向かった。棒付きのアイスキャンディーを買い、歩道橋の海側の端に座り込み、波音を聞きながら丘の上の風車をながめた。

 中学生になり、自転車で隣町まで通った。そのころには酒屋の看板は建物の端へと移動し、建物の半分が『コンビニエンスストア・ウエストリバー』という朝六時から夜十一時までのコンビニになった。

『西川酒店』の看板は、西川富二さんの通夜と葬儀の日程が有線放送のスピーカーから流れた一ヶ月ほど後に撤去された。西川富二さんの息子が経営するコンビニの脇には、西川酒店の抜け殻が物置として残っていたが、今はそれもなくなっている。

 僕は中学生になっても歩道橋で空を見上げ、風車をながめた。じいさんの機嫌をうかがう必要もなく、月三千円の小遣いからアイスキャンディーではなくコーラを買った。

 くじらは深く潜るようにして僕のそばまで近づき、腹の底で地をかすめ、再び空へと浮上していく。時には風車を覆い隠すほど地表近くを這い、町を白く霞ませた。

 小学生の僕も、中学生の僕も、それをながめることしかできなかった。手を触れるには、小学生の僕は背が低すぎた。手を伸ばすには、中学生の僕は臆病すぎた。

 その巨大なくじらが僕のいる世界のものではなく、目に見えない世界のものだと知り、小学生の僕はくじらの住むの世界に憧れた。

「くじらぐも」

 国語の教科書に載っていた短い話は、大人たちが僕の言葉を空想で片付ける格好の理由になった。

「今度くじらさんが来たら教えてね。先生にも見えるかなあ」

 あの頃の僕からすれば十分オバサンだった担任の先生は、今振り返れば駆け出しの新人だと分かる。僕は彼女の言葉と、その時まわりにいた同級生の言葉で、くじらが誰にも見えていないことを知った。あんなにも大きな体で街を覆っているというのに。

 僕はくじらの半透明の体を透かして見える、ゆらゆら漂う空が好きだった。不意に差し込む陽の光が好きだった。黒くどんよりとした雨雲さえも、宝石のように輝いて見えた。

 見上げる空をくじらが通り過ぎるあいだ、深い海の底で巨大な生命の心音を聴くような、不思議な音が僕の鼓膜を震わせていた。中学の終わり頃に観たNHKの教養番組か何かで、羊水の中で胎児が聞く音というのが放送されていた。くじらの音はそれに似ている。

 強い憧憬を抱きながら、僕は中学のあいだくじらに手を伸ばすことを畏れた。それが僕自身の脳に起因するものなのか、僕以外のところにある何かに拠るものなのか。どちらにしろ、本当のところを知りたくはなかった。

 高校生になっても、相変わらず僕は自転車で通学した。コンビニエンスストア・ウエストリバーを通り過ぎ、真っ直ぐ家に帰る。二十四時間営業になったコンビニに、日付が変わる頃自転車で向かった。

 あの頃はまだ年齢確認の必要もなく、酒も煙草も金を出せば買えた。けれど、苦いビールと煙いタバコのおいしさはその頃の僕には理解できず、ほどなくコーラに戻った。コーラを手に、僕は歩道橋の階段を上がった。

 道路沿いには雑草の生えた更地があり、夏になればそこは有料駐車場になる。それ以外の季節は雑草も放置されたままで、よくサーフボードを載せた車が停まっていた。深夜には数台の車が間隔をあけて停まり、高校の頃の僕にはそれがゆらゆら揺れる意味も分かっていた。

 道路に背を向けて揺れ動く車から、透きとおった夜空へと視線を移し、くじらの向こうの星をながめる。くじらの発する音と車の揺れ動くリズムは僅かなゆらぎをもって同調し、くじらは車の動きが止まるのと同時に夜空に浮上して、一度大きく身を捩り、漆黒の海へとダイブした。

 僕は車の中の人間がくじらの背に乗ったのだと思った。腹の底だけながめている僕には彼らの姿は見えない。けれど、彼らの意識がくじらとともにそこへ旅立ったように思えた。地べたを満たす日常から、僕の知らない場所へ脱出したように見えた。

 ただ、くじらのことをまともに考えるには高校生の僕は少し大人になりすぎた。そう思っていた。

 どうやらあの頃の僕は、くじらに手を伸ばすには少し背伸びしすぎていたようだ。


くじら潮流音/後編


 隣県の大学に進学し、人付き合いの苦手な僕にも仲間と呼べるような人間が何人かできた。それはだいたい酒の力によるもので、僕はある程度の理性をもって酒に酔い、ほどよい加減で僕自身の内面を吐露した。

 その夏、僕は中古の車で実家へ帰省し、車中には僕を含めて三人の男と、二人の女が乗っていた。

 男のうち一人は大学の近くに実家があり、もう一人は実家まで飛行機で一時間かかった。一人の女は僕と同じ県内の遥か彼方の出身で、もう一人は隣町の中心地に家があるらしかった。

 土曜日には道路沿いの駐車場でレゲエイベントがあり、荷物を僕の家に置いたあと、五人揃って昼から酒を呑み、音楽に身を委ねた。

 道を入ればすぐ民家が立ち並ぶその場所では、空が闇に包まれるとほどなく祭りは終焉した。僕たちは家に帰り、汗を流してそれぞれの部屋に入った。男は僕の部屋に雑魚寝し、女は奥の和室に布団を敷いた。隣町に実家があるはずの彼女も、なぜか僕の家に泊った。

 日付が変わる頃、僕は酔いつぶれた男二人を部屋に残し、電気を消して外に出た。見上げた空にはくじらが泳いでいた。

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