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毒にも薬にもならない話1【無料】

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掌編/短編/詩(2019年,2020年に公開したもの。2017、2018年に他サイトで公開したものの転載を含みます)
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掌編/共食い金魚

掌編/共食い金魚

共食い金魚 ぬるく、ゆるやかに対流する閉じた世界。水のなかで食いちぎられた尾びれを揺らしながらプラスチック越しに見える景色。小さな魚たちは、空気の充満したこの重苦しい世界に憧れたりするのだろうか。

 頭上に浮かぶ餌、エアポンプから排出される酸素。プラスチックでできた水草は光を受けても光合成しない。薄暗い部屋の隅、小さな水槽のなかで数枚の人工の草陰に隠れる。けれどあの大きな赤い生き物はそれを押しの

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掌編/七月の雨に立ち止まる

掌編/七月の雨に立ち止まる

 空気が水だったら、ゆるゆると流れる時間が肌に生々しく感じられるだろうか。ふいと顔を動かすだけで直に抵抗を感じられたら、私は生きていると実感できるだろうか。

 七月になった。梅雨の空気はじっとりと重く、私のまわりの時間は停滞している。停滞したまま淀んだ息をまとって六月と変わらぬ生活を送っている。

 近所のイオンの店先で、百合が濃密な匂いを放っていた。六分ほど開き、その真っ白な花びらの合間からの

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掌編/雨の日の、選ばないという選択

掌編/雨の日の、選ばないという選択

雨の日の選ばないという選択 窓の外にはさらさらと雨が降っていた。

 軒先の紫陽花を、ライムグリーンの傘の女性が眺めていた。窓のフレームのなかにもう一人、ひっつめ髪の小柄な女性が現れる。彼女が何かを話しかけ、ライムグリーンの傘が閉じられた。

 星型の、薄っすらと青みを帯びた花ビラがぱらぱらと咲く、鉢植えのガクアジサイ。

 ガリガリと音がしていた。

 私の手はくるくると手元のハンドルを回し、ゆ

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掌編/うたたねと茜空

掌編/うたたねと茜空

うたたねと茜空 茜がその日に見たのは、ふつうの青い青い空だった。

 雨など降りそうになく、そのことが少し憂鬱で、すべて放ったらかして飲みに出かけようかと考えたりもしていた。

 開け放った縁側から暑くも寒くもない穏やかな風にのせて、品のない笑い声が裏の家から聞こえてくる。ここらあたりに住む人たちは良くいえば豪快、悪くいえば野蛮という言葉が似つかわしく、喧嘩しているようなやりとりは明日の祭りの打ち

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掌編/貪欲な芳香

掌編/貪欲な芳香

 フォン・ド・ヴォーと赤ワインの濃縮した香りというのは、どうしてこうも食欲をそそるのだろう。「赤もらおうかな」とキタムラの背に声をかける。「まいど」とフランス料理屋らしからぬ返事が返ってきた。カウンターの端に立ってシルバーを磨いていたアイナちゃんの手元でカチャリとフォークが音をたてる。

「何にしますかぁ?」

 甘ったるい声が学生アルバイトらしい。「なんでもいいよ、なぁ?」とキタムラに問われてう

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掌編小説/夏の終わりのブルース

掌編小説/夏の終わりのブルース

 ふと気づくと、カーラジオから流れる懐メロを口ずさんでいた。休日の予定がなくなったことが、思いのほか自分を開放的な気分にさせたらしい。

 予定というのはたんに旧友とのランチだったのだが、夏の繁忙期はまともに休みがとれず、肉体も精神も疲れ果てていた。昨夜、友人から申し訳なさそうな声で断りの電話が入ったとき、密かに安堵したのだ。

 もう夏休みも終わりだからと、妻は一昨日から娘を連れて実家に帰ってい

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掌編小説/潮目

掌編小説/潮目

 境目というのは案外はっきりと見えるものなのかもしれません。

 海岸沿いに車を走らせ、展望台でひと休みしたときでした。潮目は恐ろしいほどに海を別ち、頒かたれた両側の海は鬩ぎ合うようにゆらゆらと揺れ、ところどころに白くさざ波が立ち、沖側のそれは世のすべてを飲み込むような深い色をしておりました。

 境目は、境目それだけでは存在できぬもの。あってなきが如く、名前はあれど境目をこの手に掬うことはできぬ

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短編小説/ならないおなら

短編小説/ならないおなら

 プゥと音がした。

「またぁ? コージくん……」

 担任の居川先生が教壇の上から呆れ顔を向けたのは、最前列ど真ん中に座る光司(コージ)だ。その後ろの席の芽衣(メイ)は漂って来た匂いに鼻をつまんだ。

「わりぃ、メイ」

「もうっ! サイアク」

 メイが机の下で右足を振り上げて前の椅子を蹴る。

 コージの隣の将(マサキ)が「くっせぇ、くっせぇ」と両手をひらひらさせた。教室内はいつものごとく爆

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掌編/ある日、森のなか

掌編/ある日、森のなか

 遠く、近くから囀りが聞こえ、梢を渡る羽音が右から、左から。ガサガサと草むらを荒らした何者かが背後を過ぎり、すべてが静まると水音が辛うじて耳に届く。天を仰げば空は一面枝葉に覆われ、その合間からぽつりぽつりと漏れ入ってくる陽光は煌めく星のよう。森に入り口というものがあるとすれば、それはどこだったのか。

 その日、お嬢は町外れにある神社へと一人向かっていたのでした。縁結びに大層ご利益があるという鄙び

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短編小説/克子のこと

短編小説/克子のこと

 なぜだか分からないが、時おり克子のことを思い出す。克子とは、私が小学五年生の春に引っ越してきた転校生だ。

 中学卒業以来会っていないし、どこで何をしているのか知らない。記憶は年とともに純化され、思い出す克子はどこか現実感がない。日本人形のような、宇宙人のような。

 久しぶりに彼女のことが頭を過ったのは、工事現場のすぐ側だった。仕事を終えて帰途についたのが午後十時過ぎ。会社を出たときに降り出し

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短編小説/白くまとノウゼンカズラ

短編小説/白くまとノウゼンカズラ

 木枯らしに追いやられて足を速めた。足元ではイチョウの葉が風に舞い、その柔らかな黄色にもの足りなさをおぼえる。すぐ脇を追い抜いていった高校生が建物のドアを押し開け、中庭へと抜ける風の音に弦楽器の音色が重なった。ロビーコンサートはたしかバイオリン、ヴィオラ、チェロの四重奏。あと三、四十分もすれば公演が始まる。オーケストラの演奏を生で聴くのは初めてだった。

 耳を澄まし瞼を閉じた。目に浮かぶのは灼け

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掌編/午前3時の来訪者

掌編/午前3時の来訪者

 はげしい雨音で目が覚めた。蒸し暑さに数センチ開けていた窓から雨が吹き込んでいる。カーテンが揺れた。

 フラッシュがたかれたような光、間をおかず轟音が鳴り響いた。一瞬見えた置き時計は3時を示していた。彼が来る時刻だ。

 私はベッドから体を起こし、窓を全開にした。

「こんばんは」

 彼はのそりと部屋に入り込む。いつものことながら鼻を突く獣臭。ずんぐりと太った胴体は泥まみれだ。

「どうして雨

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掌編/姉

掌編/姉

 レースのカーテンが揺れていた。もとは真っ白だったその布は、柔らかく風を纏いゆらゆらと乳白色の陰影を浮かべ、くすんだ色が経た時の長さを感じさせた。

 窓を開けたのはいつぶりだろう。閉ざされた扉の向こうに、この部屋はずっとあり続けていた。



 姉は美しい人だった。真白なカーテンの脇に立ち、ゆるりと吹き込んだ風がその髪をかきあげ、陽を透かし、ふと彼女が私に気づいて身をかがめると、白い肌に朱の唇

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