走って、悩んで、見つけたこと?塩見建也

こんにちは。
塩見建也(しおみ たつや)です。
暇なので、大迫傑さんの書いた「大迫傑 走って、悩んで、見つけたこと」(文藝春秋)と同タイトルで、走り(陸上競技)について、自分の見つけたことを書いていきたいと思います。
3分くらいで読み終わります。誰か、読んでくれるでしょうか。

僕は人生の多くを走って過ごしてきました。最初は単純に走ることが楽しくて、誰よりも速くなりたいという気持ちだけでした。けれども、走り続けるということは、壁にぶつかったり、悔しい思いをしたり、悩んだり、ときには辛い思いをするということでもありました。そして、それらを乗り越えるための答えもまた、すべて走り続ける中で見つけてきました。

本の最初には、こう書かれています。
僕と大迫さんの競技スタンスの違いは、結果(=過程)を追求するプロランナーであるか、走る楽しさを追求(&追究)する、究極の趣味として走り続けるランナーであるか、だと勝手に思っています。

僕にとって、大迫傑さんは最も尊敬するランナーの一人です。

写真は初マラソンとなった、ボストンマラソンの時のInstagram投稿。2度目のフルマラソン日本記録を更新し、昔から、その言動や異端さ(世間的な)が注目されている、日本の代表的なランナーです。結果や強さ、競技に対する思考、言動など、新時代の日本の長距離界を切り拓く、パイオニア的ランナーだと思います。

でも僕は、「大迫傑さんのように、結果を出したい!勝ちたい!」わけではありません。
あ、結果を出したくないと言えば嘘ですし、もちろんレースで勝ちたいですが、根本的な違いとして、僕はあくまで「趣味」として走っています。

走ること(陸上競技)が、イコール趣味であることに気づいたのは、大学3年〜4年にかけての頃でした。

小学生の時は、父の勧めで野球をやっていました。そんな中、学校のマラソン大会で上位に入って目立ちたいと思って、業間マラソン(休み時間のランニング練習)を頑張っていました。多少の努力の結果、学年100人ちょっといる中で、10位くらいで走れましたが、いつも勝てない同級生が数人いました。「その子たちに負けた。勝ちたい!」と悔しくて、夜、家で泣いたことを覚えています。

中学から陸上競技部に入って、本格的に中長距離を専門に走り始めました。中学1〜2年の頃は、週4〜5日の部活の時間の練習だけで、大体走力が身に付いてるのが分かり、自己ベストも少しずつですが伸びていました。それもそのはず、成長期と重なった陸上競技初心者が、部活で普通並のトレーニングをすれば、自然と走るのは速くなります。
そんな状況で、ガキだった僕は調子に乗って、練習をサボり始めます。顧問の先生の見えないところで、手を抜いたり、同級生と練習以外のことをしたり。いい意味では昔の思い出として楽しかったですが、この最初の約2年間をもっと意識高くトレーニングできていれば、中学高校で、もう少し良いタイム、結果が出せていたのではないかと、後悔もしています。
そうこうしているうちに、中学2年の秋頃、頭打ちはすぐに来ました。しかも毎回勝てていた同級生Tにレースで競り負け、後輩TやNが着々と伸びてきていました。僕は天性のランニングセンスがあるわけでもなく、恵まれた良い体でもないので、練習が変わらなければ、記録は停滞していました。
中学3年になる頃、中学最後の年だし頑張ってみようと思い、部活が終わって帰ってから自主的にランニングしたり、生活習慣を正してみたりしました。さらに、僕をよく見てくれた中長距離コーチのY先生、見限らずに厳しく指導してくれた顧問のE先生、中学最後一緒に頑張ろうねと言ってくれた同級生Sの存在もあり、最後の夏の県大会で1500mの自己ベストを15秒ほど更新することができました。しかし結果は9位。3位までが北信越地区大会に進出できる大会でした。北信越地区大会への進出を、冷静に考えると厳しいと思い、無謀ながらも大目標としていたので、レース後、悔しくて、サブトラックで泣いていました。(また泣いてんのかよ…)
ですが、ここからミラクル。色々あって、3位相当として、北信越地区大会への出場権を手に入れることができたのです。(知りたい人は聞いて下さい)これには本当に驚きました。人生の中でも嬉しいランキングトップ10には入ると思います。北信越地区大会では、他県の上位選手と競れるわけがなく、下から3か2番でゴール。敵うわけがない、と事前に割り切れていたこともあり、一生懸命に楽しく走ることができました。
その秋に、駅伝を走り、思いの外楽しかったので、「駅伝がしたい!」という思いで、高校も、県内では強豪と呼ばれるM高校に進学しました。大学進学後メキメキと実力を伸ばし、学生トップクラスのランナーになったR大学のKが主な同級生です。他にも大阪から来たK、バカだけど信念を持つT、同じくらいの走力でよく一緒に練習したK、寮でギターを没収されたM、よく貧血で倒れたマネージャーS、といったメンバーで、全国高校駅伝出場を目指して、3年間走りました。卒業して4年経った今でも、連絡を取り合ったり、年に1回はみんなで集まって昔話をしたりしています。

高校1年の頃は、髪を丸め、週5の部活での練習、電車通学と環境が変わる中でも、それなりに練習しただけで、3000mであっという間に10分を切る自己ベストを出すことができました。(中学ベストは10分20秒くらい?たしか)
始めての夏合宿で、怪我なくメニューを消化し、その後、菅平高原で行われる合同合宿にも参加しました。そこには大迫さんの母校S高校をはじめ、全国の強豪校が集まり、トレーニング、寝食を共にしました。(まさかここのトップが、ほぼみんなT大行くとは思いませんでしたが、仕組みを考えると、当然でした。)全国トップクラスのランナーの走りを間近で見たこの頃から、真剣に、「結果を出すにはどうしたらいいか」「強い選手の真似をしなければ」といったことを思い始めました。しかし、寮に入って練習量を増やしたり、5000mで自己ベストが出ても、やっと16分を切る程度のタイムに満足できず、高校2〜3年時は伸び悩んで、大きな結果が出ずに落ち込んだり、ストレスや自分に対するイライラが溜まったりすることがよくありました。
高校3年の春季総体では、5000mに出場しましたが、ラスト100mで差されて7位となり、北信越地区大会への出場を逃しました。秋の県駅伝と、県大会を優勝して行った念願の全国高校駅伝でも8番手選手としてサポートに回り、走ることは叶いませんでした。しかし当時は、チームで駅伝ができることが嬉しく、それだけで楽しいと思っていました。駅伝で走れなくても、諦めずに頑張ってきて良かったと思えたのは、少し大人になった感じがしました。何より、走ることよりも、生きていく上で、人間としての感性を磨かせてくださった監督のH先生には、とても感謝しています。

陸上競技とは別に、国立大学進学を目指していたため、並行して受験勉強もしていましたが(クラスで1番してない)、センター試験では、ろくな点数が取れませんでした。結果、第一希望の大学への進学はできず、滑り止めとして合格していた私立大学への進学を決めました。

大学では、駅伝部ではなく陸上競技部(中距離ブロック)の門を叩き、トラック種目で再び1500mを専門にトレーニングを始めました。

写真は中距離ブロックの集合。結果的に、4年間で1500mと、5000mも自己ベストを更新でき、自分と自分の走りについて見つめることができました。中学高校の時と、全く異なる陸上競技に対する考え方を持つコーチ、先輩、同級生たち、後輩たちの存在で、自分の中の陸上競技に対する考え方も大きく変化しました。
小学校高学年から、中学、高校、大学と、人生の半分程度の時間、走ること(陸上競技)を続けてきて、まとめると、「ああ、良かったな」と思っています。大迫さんは、より強くなるための選択を、大迫さん自身で決断してきましたが、僕はというと、割と、何となく島に流れ着いたような決断になっていました。でも僕はありがたいことに、どの島でも、いつも周りのメンバーに恵まれた中で陸上競技をすることができていました。独りになることもなく、結果が全てという競技者であること以前に、1人の人間としての生き方や考え方を見つける機会やキッカケとして、陸上競技をすることができてきました。

大学4年の春、就職活動を少しだけしましたが、ろくに社会に出たわけでもないのに、一般企業に勤める自分の将来像に、とても違和感を感じていました。かと言って、自分の走力や成績では、実業団選手として走っていけるわけがなく、半ば諦めかけていました。
しかし、この頃には「走ることが好き」「走り続けたい」という境地に至っていたので、実業団以外で、なんとか陸上競技を重点に置いて生活していける環境がないかを探しました。そして、現在、大学卒業を控え、春から社会人になりますが、「走ることが好き」「走り続けたい」という強い想いの下、そこに合致した環境を自らの意志(意思)で選択することができました。大学までが、島から島まで見知らぬ海流に流されていったとすると、今回は自分でオールを漕ぎ、途中、海流に飲み込まれそうになりながらも、拾った地図を見て、島に到着した感じです。

環境が大きく変わっていく中で生き残る力は不可欠です。チームに順応して、ちゃんと残れる強さこそが強さになると思っています。

大迫さんは、佐久長聖高校→早稲田大学→日清食品→ナイキ・オレゴンプロジェクト→ナイキと競技環境が変わる中で、試行錯誤し、周りに同調することなく、自分の存在を示し、自分の居場所を作っていたそうです。
僕は、中学→高校→大学と環境が変わった時に、それぞれ異なった競技環境で、それぞれに適した考えで陸上競技に取り組んでいたと思っています。年齢が上がるにつれて、段々と知識や思考力が身に付いてきたこともありますが、自分の陸上競技感と最もマッチしているのは、やはり大学の環境でした。今後も、大学で確立したスタイルで陸上競技に取り組んでいく(=趣味を楽しむ)ことでしょう。

大学の環境がマッチしていると思った理由は、コーチとの関係性です。コーチと選手の例えとして、ナビゲーターとドライバーの話が本にありますが、まさにその通り。僕の信頼するKコーチも、大まかな道筋をナビしてくれますが、ドライバーは僕自身で、実際に走るのも自分の脚。よくアクセルとブレーキのタイミングを指摘されたり、ナビをしっかり聞かずに、何度も同じ道をグルグルしてしまうこともあります(笑)が、いつも的確な方向性のナビをしてくれます。

写真は、記録会でペースメーカーを努めるKコーチ。自身も更なる記録向上を目指してトレーニングしています。また、大学陸上競技部の中長距離ブロックは、7割の選手が800m(と400m)専門で残りの選手が、800mよりも、1500mかそれ以上の距離を専門とする選手が集まっています。

主に中距離選手が多く、良くも悪くもみんな自己中心的傾向があります。オレゴンプロジェクトのメンバーもそうだったようです(笑)悪い意味で馴れ合いがなかったり、大学でも競技を継続するほど、それぞれが陸上競技好きなメンバーだったので、自分がどういった取り組み方をしていくのかが、とても重要でした。そこで僕は、今までの自分にあまり無かった、「走ることを楽しむ」という境地に行き着きました。陸上競技をしていない、普通の人からすれば「変」だと思われがちですが、自覚はしています(笑)

「楽しく走る」という言葉だけでは伝わりにくいと思うし、語弊もありそうですが、僕は、走ることを楽しんだ先に、レースでの勝ちがあると思えるようになりました。この考えも、大学でコーチや先輩たちの走りから学んだり、感じ取った影響が大きいです。


意志を持ち続けること。

本には、こんな小見出しの章があります。
大迫さんは、昔から世代トップクラス、日本トップクラスの成績を残してきました。でも、常に″自分が″さらに強く、世界と戦うために、犠牲を払ってでも、シンプルな努力を積み重ねてきました。

僕は、大迫さんのように、競技に対してストイックに無駄を省いて向き合うことはできません。でも、走ることを楽しむための意志は持っています。学生であれば、寮で、ストイックに早起きして朝練、午前練習、午後練習、24時間「陸上競技のために」「結果を出さなければ」と思い詰めなくても、努力の仕方、方向次第である程度の自己ベストは出ます。もちろん、例えば、箱根駅伝を目指す関東の選手たちは、生温い覚悟ではやっていけないと思うし、みんな相当な意志を持って陸上競技に取り組んでいるはずなので、自分とは別のスタンスの競技者として、尊敬します。
走ることが好きなら、自然と、自分の中で陸上競技のことを考えるウエイトは大きくなるし、取り組み方も変わってくる。

写真は、大学4年の冬に5000mでベストを出した瞬間。前日もバイトしていました。今は、1日の走行距離が高校の時の半分程度、一人暮らしでバイトもして、夜遅くまで遊んでお酒も飲んで(毎日ではないけど)、という生活でも、体は高校の時より引き締まり、走りの動きも良くなって、スピード・スタミナ共に身に付きました。食事も、半無意識的にタンパク質や炭水化物をよく摂っていたり、いっぱい走った日はいっぱい食べて、休養した日は炭水化物を気持ち抑えるなど、走りが生活の一部になっています。
「格段に走力が上がっているわけではないですが、徐々に上がっている。」これをこれから先、40歳くらいまで続けていきたいと思っています。あとにも書きますが、今後、僕が専門的に挑戦するフルマラソンは、30歳以降でも競技力を伸ばすことが可能です。

人類史上初の42.195kmで2時間切りを達成した時のエリウド・キプチョゲも35歳です。(中距離やトラック種目では、筋力の関係上、30歳までにピークを迎えることが多い。)
自分がこのまま少しづつでも、競技力を上げていくことができれば、いつかマラソン大会の年代別の部門で優勝できる日も来るかもしれません。

今まではトラック種目や駅伝を走ってきましたが、これからは主戦場をフルマラソンにしてくつもりです。
走りは、距離が長くなればなるほど、メンタル面の重要度が高くなってくると思います。大迫さんが言っていたのは、「フィジカルは鍛えても最大はほぼ決まっているし、コントロールが難しい部分もある。でもメンタルは鍛えたら鍛えただけコントロールできるし、強くなれる。」ということでした。もちろんフィジカルも鍛えますが、強いメンタルを持つことの方が自信はあります。
もう一つ、距離が長くなればなるほど大きくなるのは達成感です。フルマラソンのためにトレーニングを積んで、42.195km走り終わってから飲むビールなんて、最高に美味いでしょうね(笑)


走って、悩んで、見つけたこと。

やはり、最後はこの章題で締め括られていました。大迫さんが書いた内容は、ぜひ、本を買って読んでみて下さい。
僕が、走って悩んで見つけたことは、良い悪いや、正解間違い、といったことではないし、どっちかも分かりません。僕がこの先も走り続けることは、他人から見れば、「いわゆる、普通ではない」と思っています。実業団クラスの実力もなく、大した実績もない、ただ純粋に好きなことを続けたい、という思いだけでやっています。
陸上競技に区切りをつけて、引退するという判断をした人も多くいますが、僕はその人たちをとても尊敬しています。陸上競技が嫌いならまだしも、ある程度成績を残したり、大半は陸上競技が結構好きなはずなんですよ。そこで、次にいけるのは、すごい。僕なんかより先のことをよく考えて、しっかりしてる人たちばかりなんだと思います。

自分で選択したからこそ、責任も自分にあり、自分の好きにできます。さっきも言いましたが、正解か間違いかなんて、まだ22年しか生きていないので分かりません。死ぬ時に自分のことについて、「走るの楽しかったなあ」と思えれば、それでいいかな(笑)

こんなめちゃくちゃ長く拙い文章を最後まで読んで下さり、ありがとうございます。3分で読めると嘘ついて、すみません。
「塩見のくせに何言ってんだ」と思われるかもですが、今の思いや考えを書いてみたら、こうなりました。読んで下さった人、感想を伝えてくれると大変嬉しゅうございます。

終わり

2020.3.4
塩見 建也

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