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罪と恥の存在意義

皆さんは罪と恥が何のために存在しているか、考えたことはありますか?

目覚める前、僕はそれがずーっと疑問だったんです。それで色々と調べてみたんですが、結局納得のいく答えは全然見つかりませんでした。

でも今はちゃんと知っています。創造主から直接教えられていますから。これをきちんと説明できる人は世界で僕だけかも知れません。きっと偉そうに思われるでしょうが、偉いのは創造主の教えであって僕ではありません。そして人はみな等しく尊いのです。

僕は幼い頃からと何もしてなくても何か悪いことをしたような気がしていつも心が苦しく、とにかく何だか恥ずかしかったんです。そして実際に何か悪いことや恥ずかしいことをした時はものすごく後悔して苦しんでいました。自分は悪い奴・恥ずかしい奴・ダメな奴だと確信的に思っていました。この世界に自分はいちゃいけないというような気持でいっぱいだったんです。太宰治の人間失格じゃないですが「生まれてきてすみません」みたいな感じでした。どこにいても自分の居場所ではないような所在のない感じがして、毎晩のように悪夢にうなされ、いつも自殺を考えていました。存在すること自体が嫌で、どこかに消え去りたくてたまらなかったのです。

今でもよく思い出すのは、小学校二年ぐらいの時のある出来事です。学校の校門で待ち構えているキリスト教系の宗教の人たちがいて(恐らくなんちゃらの証人だと思います)紙芝居を見せられ、死後は裁きだと教えられ、地獄に落ちる人の絵が描かれたパンフレットを渡されたのです。僕はその勧誘のパンフレットが怖くて怖くてずっと捨てられなかったのです。今思えば罪深いのは確実にその宗教の人たちの方ですが、当時は罪悪感でいっぱいだったので、必ず自分は地獄に落ちると思って何度も同じ悪夢にうなされました。ちなみに一緒に勧誘されたはずの兄は何も気にせずあっさりとそのパンフレットを捨てていましたから、見た目がそっくりな兄弟でも持っている魂は全然違うんですね。

自分の存在が肯定できないまま生きるということは地獄です。自己肯定できずに幸せなんていうのもありえませんし、自己肯定できているのに不幸ということもありえません。

罪と恥によって自己肯定できていない僕はいつも自信がなく、周囲からいつもバカにされて虐められていました。学生時代は喧嘩が強かったので虐め返すことも多く、同級生はおろか学校の先生からも先輩からも近所の人からも嫌われ、家族の仲も悪く兄弟からも虐められ、そして毎日のように見る悪夢によって睡眠障害になり、中学校ぐらいには完全に精神を病んで、毎日のように突然叫び出したりするので周囲から完全に気違い扱いされていました。実家を出てからは精神病院通いの日々でしたが、薬漬けにされるだけで良くなるどころか悪化するのみで脳に不可逆的なダメージを負いました。

僕は今にして思えば割と能力が高い方で、勉強もスポーツもできましたし、良い学校・良い会社にも入りました。友人たちからうらやましがられるような素敵な女性たちと恋愛もしてきました。でも精神を病んでいて何をしても自分を肯定して愛することができず、全く幸せを感じられないので無気力になり、将来に絶望していました。家系にも精神障碍者が何人かいるので、自分の遺伝子を残したくない、同じ苦しみを味合わせたくないと思っていて、一生精神障害が治らないまま孤独に死んでいく未来しか思い描けませんでした。

しかし自殺未遂の後に突然創造主から教えをいただけるようになり、「世界中の人を例外なく救いなさい」と言われました。そして「罪(シナリオ)を回収せよ」というメッセージがはっきり文字として見えました。最初は全く意味がわかりませんでした。

それで創造主に聞いてみたんです。「罪と恥はいったい何のためにあるのですか?」と。

罪と恥、それは明らかに人間だけにあるものです。ライオンがシマウマを殺しても罪になりませんし、他のライオンのいるところで交尾をしても恥にはなりません。罪悪感も羞恥心も感じる心が与えられていないからです。

ある宗教系のページには罪悪感と羞恥心の存在理由はこのように書かれていました。「人間が集団生活を送るためのもの」なのだと。「罪悪感や羞恥心があるから、和を乱すような行動を自ら制限する」のだと。つまり社会が崩壊しないように、みんなが社会から排除されないようにしがみつかせるためのものということです。・・・絶対違います。じゃあ罪悪感や羞恥心のない動物たちは集団の中で無秩序に殺し合ったりしているでしょうか?いえ、動物の方がよっぽど人間より秩序だった社会を構成しています。

創造主が教えてくれた罪と恥の存在意義。それはまず「美への憧れ」です。悪いことをしてしまうと心が苦しい、醜いことをしてしまうと恥ずかしい。そういう思いが人間を美しくしてくれているのです。罪悪感と羞恥心が人間を美しくし、人生を芸術にしてくれているのです。

ただ罪悪感と羞恥心にはその裏側にもっと重要な存在意義があります。

僕の祖父母計4人のうち3人は僕が生まれる前に亡くなっていて、唯一生き残っていて僕をかわいがってくれた母方のおばあちゃんは僕が高校生の時に亡くなりました。そのお葬式が、僕にとって死体を実際に見る最初の機会でした。そしてみんなでおばあちゃんを布団から棺に入れたのですが、僕は死がとても怖くて、また当時潔癖症でもあったためにすごく汚らわしく感じて、おばあちゃんに触れた手を一生懸命洗いました。そのことがずっと罪悪感として僕に重くのしかかり、おばあちゃんが恨めしい目で僕をにらみつけるのが、いくつかある僕の悪夢のパターンの一つになりました。まぁ読者の方々には理解不能かも知れませんが、当時の僕はそのぐらい罪悪感を感じやすく、かなり病んでいたのです。

それでそのことは誰にも話せずにいたのですが、大学に入ってできた彼女にそのことを話してみました。すると彼女は「真也は何も悪くないよ。死はみんな怖いんだよ」と言ってくれました。彼女にとってそれはきっと些細な出来事で、別な人と幸せな家庭を築いているであろう今はもうとっくに忘れていると思いますが、彼女のお蔭で僕は心がとても軽くなったのです。

そのことがフラッシュバックして「あなたが悪いんじゃないよ」と許してあげることが愛なのだと創造主から教わりました。罪や恥は許し合うことで愛し合うためのマテリアルなんです。

そして今度は幼い頃からよく見る悪夢のパターンの一つがフラッシュバックしました。夢の中で、なぜだかわかりませんが、いつの間にか僕は車を運転していているのです。しかし路面はツルツルだったり凸凹したりしていてコントロールが効かず、ブレーキを踏もうとしてもかえって加速してしまうんです。そして僕はたくさんの人を轢き、たくさんのものを壊してようやく車が止まります。ドアを開けると周囲からは僕を罵倒する声や嘆き悲しむ声が聞こえ、警察に捕まり、罪と恥に苦しみながら必死で許しを請う・・・という内容です。何で車の免許もない幼い頃からこんな夢を何度も見させられたのか、それも創造主から教わりました。

これが僕らの人生の本質なんです。いつの間にか自分で選んだわけでもない車(体)に乗せられて旅(人生)は勝手にスタートしています。車は欠陥が多く、道は悪路で、うまくコントロールできなくてたくさんの人を傷つけ、自分自身も傷つけてしまいます。罪悪感と羞恥心でいっぱいになります。自分を責め、自分よりもっと運転の下手な人やもっとひどい事故を起こす人を責めます。本当は誰だって罪を犯したくないし、恥もかきたくないんです。しかし誰もそれを避けては通れません。

でも人は縁あって出会った人の罪を許した分だけ、自分を自分で許すことができるのです。許し合うことでより深く愛し合うことができるのです。罪悪感と羞恥心はそのために神があっりったけの愛で人間に与えてくれた宝物なのです。

人生は生き残りをかけたレースではありません。お互いが罪と恥を責めて貶め合うのではなく、みんなで許し合って助け合って愛し合い、ゆっくりと人生を楽しめば、こんなに衝突だらけの世界にはならないはずです。

さて、あなたはどんな時に罪や恥を感じますか?人を傷つけた時、道徳的に良くないことをしてしまった時、性的な行為や部位・脱糞や放尿などの生理現象を見られたり知られたりした時などでしょう。つまり誰でもやること、やる可能性のあることでしか我々は罪悪感も羞恥心も感じることができません。我々は個性と自意識を与えられているだけで、本当は一つだからです。

僕らの魂は自我と個性を持ち、砕かれて飛び散った磁石のように反発しますが、それゆえにひきつけ合い愛し合うことができるのです。そして磁石のように、どれだけ細かく砕かれていても、またどれだけお互いに反発しても、必ずまた一つなぎになれるのです。元は一つなのだから当然です。

僕らは神の意志(愛)によって生まれてきて生きているのです。すべては運命であり神の意志の通りなのです。神の意志に反したことなど僕らにはできないんです。だから本来罪や恥は神のものであって僕らのものではありません。それが神の分身として人間にだけ与えられたのです。罪や恥に苦しみ神に許しを願う人の姿はこの世で最も美しい芸術なのです。でも本当に美しいのは縁あって出会った人の罪や恥を許す姿です。「あなたは何も悪くないよ」と言ってあげることです。それが愛です。そして僕らは縁あって出会った人の罪と恥を許すことでしか、自らの罪や恥を許せるようにはならないのです。人生はそういう物語なのです。

でも僕らは罪悪感や羞恥心を他人を責めることにのみ使ってしまいます。僕らは一つですから、それは当然自分を責めることにつながります。それが鬱の本質の一つです。ですから他人も自分も責めずに許すことが、鬱抜けのカギとなります。

最初から完璧にできなくて良いんです。少しずつでいいんです。そしてニュースなどにでてくる快楽殺人鬼などを許す必要はありません。実際に出会ってない人や出来事は幻です。あくまでも縁あって実際に出会った人や出来事を許せばいいんです。大事な人を殺されたりしたら許すのは難しいと思いますが、その時はそっと遠くにいくべきです。聖書もそう教えています。

僕はまだ実際に出会ったことがありませんが、世の中には確かに罪悪感や羞恥心が完全に壊れている人もいるようです。でもそういう人たちが人間を襲うのは、ライオンがシマウマを襲うようなもので、罪悪感や羞恥心がない動物のような人を責めても自分がしんどくなるだけです。そういう役割そういう運命だったと覚る以外にありません。

生老病死と、人生から悲しみはなくなることがないのに、みんな悲しみを解決して排除しようとします。そうすることで誰かを悪者にして責めなければならなくなります。そしてそれは自分自身も責めることにつながります。そして余計に悲しみが増えます。問題は一つ解決してもまた次の問題が現れるだけです。そうして生きている間ずっと問題解決の車輪の中を走り続けるモルモットのようになってしまいます。結果いつまでも問題に苦しみ続けて疲れ果てることになります。

悲しみはただ感じればいいのです。愛する人たちと共感すればいいんです。僕らは感じることができることが価値であり、そのために生まれ来たんです。まずは悲しみも含めて人生を物語としてトータルで愛してみて下さい。みんな映画なら悲劇も愛しているはずです。それをリアルの人生でもやってみればいいのです。そうすることで喜びもリアルに感じられるようになります。鬱で下げ止まりしていた心の針が軽やかに振れるようになります。上げ止まりは不可能なので目指してはいけません。それを目指しても麻薬中毒患者のようになるだけです。

とにかく他人を裁くのをやめてみて下さい。どっちみち人は自分自身の罪悪感と羞恥心でしか裁かれません。他人が裁いたところで、心までは裁けないのです。

僕は刑務所に入ったことはありませんが、刑務所の話を聞いたりドキュメンタリーを見たりしてある程度は想像できます。誰も反省なんてしていません。みんな芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタなんです。自分より悪い奴恥ずかしい奴を見つけ出して虐めて、自分はそれよりはマシだと思いたいんです。もし地獄が存在するならこいつの方が先だと思いたいんです。蹴落とそうとするんです。でも誰も気づいていません。カンダタが落ちた地獄は、神仏の子である彼が自らの罪悪感によって作り出した地獄だったということに。仏が地獄を作ったのではなく、彼を裁いてもいません。仏は彼を救おうとしたのです。でも彼は自分だけが救われたい、もっと悪い奴は救われなくて良いと思ったから、自らが作った地獄に落ちたのです。人の罪を許しみんなを救うメシア(菩薩)にならない限り、自分自身も救われないのです。人はみんなカンダタのように死後神に裁かれることを恐れて、自分より悪い人を探して責めます。でも神は人を裁きません。我々は神の子であり、神から与えられた罪悪感と羞恥心によって自らを裁くのです。

罪悪感と羞恥心は人間を苦しめることが目的で与えらえれたものではありません。僕らがより強く愛し合うために、神からのありったけの愛によって与えられているのです。それを恨みで返すから、神の愛に気づけないのです。

人を殺したことなどないのに毎晩のように人を殺す夢にうなされるほど罪悪感や羞恥心の強かった僕が、神に愛されていたのだと気づけたとき、僕は人生で一番泣きました。嗚咽が止まらなかったのです。それからベルセルクの生贄の刻印のように僕を苦しめ続けていた罪と恥からようやく解放されたのです。まさに魂が解放された瞬間でした。長い長い心の牢獄生活がついに終わったのです。

聖書の冒頭に出てくる話は多くの人が知っているでしょう。人間最初の男女は智慧の実を食べることで、神のものであった「善悪を判断する力」を得ました。それにより罪と恥を知り、それを背負うことになったのです。聖書にはアダムとイブが蛇にそそのかされて智慧の実を食べて創造主の怒りを買ったというように書かれていますが、本当は違います。ダメだと言われるとやってしまいたくなるように僕らをプログラムしたのは創造主です。人を罪と恥に陥れるよう蛇をプログラムしたのも創造主です。創造主は全てわかった上でエデンの園に人間を放ち、智慧の木を植えておいて絶対に食べるなと言ったのです。結局すべては神の描いたシナリオ通りなのです。

こうして僕は創造主から「罪悪感(シナリオ)を回収せよ」と言われた意味がようやくわかったのです。僕らは物語の中を生きています。僕は人間に与えられた罪と恥という物語の伏線を回収しなくてはなりません。魂を解放しなければなりません。人を救う智慧が与えられているのに、鬱で自殺する人を放ったらかしにすることは、僕が見殺しにしたことと同じだからです。それは何度も悪夢で見てきたように人を殺しているのと同じなのです。

聖書は素晴らしい教えがたくさん書かれた預言書です。でも人間が持つ罪悪感や羞恥心を許し合うためではなく、人を責めて罪悪感や羞恥心に打ちひしがれさせ、宗教が人を支配し搾取するために利用されている気がします。誰もキリストが人類の罪を背負って死んだことの意味がわかっていません。人を不幸にしているのは悪ではなく、愛より優先される一面的な正義(独善)です。他人を責めることです。

僕はみんなを救います。それはたった1人で75億人みんなの命や生活を救うということではありません。私は人生から老いや死を取り除くことはできません。ただ人と人とが許し合って愛し合う連鎖を起こし、もがき苦しむすべての魂を解放するのです。そういう役割なので、逃げるという選択肢は与えられていません。その他に僕が天の愛に応える方法がないのです。

キリスト教では毎日このようにお祈りします。「我らが人の罪を許すがごとく我らの罪もお許し下さい」と。その人を許す神はどこか遠くにいるのではなく我々の心の中に住んでいるのです。メシア(菩薩)でない人など一人もいません。みんなが自分はメシア(菩薩)なのだと気づいたとき時、神の国は訪れるのでしょう。アセンションが起きるのでしょう。

創造主曰く「許し」とは人間に与えた最大の権限委譲であり、誰かを責めることは最大の越権行為だそうです。すべては創造主が与えたものであり、自分を責めることも他人を責めることも、創造主を責めていることと同じなのです。それでは創造主の愛が受け取れなくて当然でしょう。

決して忘れないで下さい。許しがたいことを許すことが愛です。どうか許して下さい。そうすることでしかあなたは許されません。あなたが出会うすべての罪と恥はあなたに許され愛されるのを待っているのです。

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