懐かしいお店

 先日、オンライン飲み会を行って、とても楽しい時間を過ごした。普段の飲み会と比較して、会話のテンポが少しずれるものの、他愛のない会話で盛り上がった。その際、用意したおつまみ(スーパーの半額総菜)がとても美味しく感じた。同じもの独りで食べている時は、美味しさをあまり実感できていなかったが、対照的であった。

 会話が料理の味を良くさせるということを、学生時代につくづく実感した。サークル活動の終わりや研究の合間に、友人らと食事に出かけて、将来の夢や研究の愚痴をよく語りあったものだ。その時の料理は、とても美味しかったことを今でも思い出す。しかし、何か行き詰まった際、独りでやけ食いしていると味の記憶がなかった。

 大学周辺のお店が懐かしい。例えば、Big丼という名前を冠してさらに大盛や小盛がある店、軽食喫茶と看板に掲げていながらボリューム満点の天重・定食の店など、言葉遊びをしている所がたくさんあった。今になって考えると、それらの店の味は丁寧に作った家庭料理という趣で、飛び抜けて美味しいものではなかった。きっと、3つ星のレストランとは異なる軸にある美味しさである。

 こうやって思いを綴っていると、学生時代に通っていたお店へ再び行きたくなった。しかし学生から離れて久しい身分では、行ったところで同じ感動を得られないはずだ。その理由の一つに、年を取ってしまい食べられる量が減ったため、それらの料理を食べきることが苦痛になるだろう。もう一つの理由も年を取ってしまったためで、友人とそれらの店に行ったところで、昔のような青々しい書生論を交わせなくなったからだ。

 書生論を交わせられない、これを前向きに捉えれば現実に則した話をするようになった、とも言える。しかしながら、気兼ねない友人と一緒ですら夢とか希望を広げられないのは、一抹の寂しさを覚える。もっとも、こうした感情は未だに学生時代に囚われたままで、ある意味ピーターパン症候群であるのかもしれない。

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