「時の喫茶店」
1.
駅前の小道を曲がった先に、木製の古びた看板がかかる「喫茶 時(とき)」があった。看板には「過去の記憶を飲むカフェ」と小さく刻まれている。ふらりと立ち寄った28歳の会社員、**悠人(ゆうと)**は、好奇心と少しの疲れを抱えながら扉を開けた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、年齢不詳の店主、**千歳(ちとせ)**が現れる。銀髪の長髪が神秘的に揺れ、その声にはどこか懐かしさが漂っていた。悠人は空いている席に腰を下ろすと、千歳がそっと差し出したメニューの「記憶ブレンド」に目が留まった。
「君が一番忘れられない過去の話を聞かせてくれれば、それに合う一杯を淹れるよ」
突拍子もない提案に面食らうが、不思議と心が引かれ、悠人はしばらく思いを巡らせた末に、大学時代に出会った恋人との別れ話を語り出した。彼女の名前は美香(みか)。彼は今も、彼女を幸せにできなかった自分をどこかで責めていたのだ。
千歳は頷きながら、丁寧に一杯のコーヒーを淹れた。その香りに包まれると、悠人は自分が少し軽くなるのを感じた。
2.
「ねえ、今夜もお客さんがいるのね?」
店内に響いたのは、昭和の映画女優のような風貌の女性、**玲奈(れいな)**の声だった。白いブラウスにワイドパンツ、真っ赤なルージュがどこかノスタルジックだ。彼女は悠人の隣に腰掛けると、かつての栄光と失恋の思い出を語り始めた。かつて大女優として脚光を浴びたが、ある役を逃したことをきっかけに引退した彼女は、今もその決断を悔やんでいた。
「でもね、過去の自分を責めたってしょうがないのよ」
玲奈のその言葉は悠人にとって新鮮で、励ましにも聞こえた。
3.
さらに夜が更ける頃、もう一人の客が現れた。戦後すぐの時代から来たような背広姿の男、**新一(しんいち)**だった。真面目な顔つきの彼は、戦争で生き残った罪悪感を抱えて生きてきたことを語った。
「生きる理由を、ずっと探していたんだ」
そう語る彼の表情には、悠人が感じている自己嫌悪とどこか重なる部分があった。千歳は静かにコーヒーを差し出し、「人にはそれぞれの時代がある」とだけ告げた。その言葉に新一の表情がほぐれるのを見て、悠人もまた自分の心が少し軽くなった気がした。
終章
夜明けが近づくと、千歳は静かに言った。
「ここを訪れた人は、少しでも心の重荷を置いていける。でも、次に来た時にはもう、ここには来れないんだ」
悠人は驚きながらも、その言葉が嘘ではないと感じた。店を出た後、見知らぬ場所に続いていそうなあの古びた看板も、今ではもうどこにも見当たらない。
玲奈や新一、そして店主・千歳との出会いを胸に、悠人は再び歩き出した。もう振り返らずに、自分の新しい道を進んでいくために。