やさしい偽善者について考える。
どうも、別格です。
今日、立ち寄った喫茶店で耳にした「偽善」という言葉。
コンビニエンスストアでお釣りの1円を寄付したり、自分が痛くも痒くもない範囲で支援をしてご満悦な気分になっている様子を「偽善」だと思う、というような会話だった。
それらの行為が偽善かどうかについてではなく、純粋に「偽善」という言葉に興味が惹かれた。
偽物の善意、善行を「偽善」と呼ぶなら、すべては偽善で良いんじゃないかと思った。
偽物があるということは本物があるということだ。
本物の善意や善行があるとするなら、本物の悪意や悪行もあるってことだ。
誰がその善悪を決められるっていうんだろう。
そう思ったら本物の善意がちょっぴり怖くなった。
これは善意なのかな、偽物じゃないかな、って、心配になるくらいがちょうどいいんじゃないか。
悪者を作らない、そんな「偽善者」ってやさしいのかも。
なんてことをキリマンジャロを飲みながらつらつらと考えてみました。
ではまた。