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短編小説 - 嬰歌

 僕が、まだ記憶というものを、過去とか未来とか現在といったもので理解した気になる以前のころの話だ。だから、僕は、この話を誰かから聞いたものと思っていた。それが祖母だったか、母だったか、わからないのだけれど。僕は、一体誰にこの話を聞いたのか。祖母に聞けばわかるかもしれない。母に聞けばわかるかもしれない。でも、だれに聞いても答えは同じことだった。
「そんなことあったかしらねえ」
「あったような気もするわ」
「そうよそうよ、あったわよ。私は覚えているわよ」
「いえ、そんなことはありません。この子が生まれた年には、あなたはほら、外国にいっていたじゃないの」
「あら、そんなことないわ。私がいなかったのは九〇年までよ」
「ありゃありゃ、みんなして都合のいいことばかりいって、俺は、はっきり覚えているよ全く心当たりがないってことをね。だからよ、そんなことはなかったんだよ」
「なによ、あなたは大体いつも覚えていないじゃない。新婚旅行で買った絨毯のことだって、忘れて、その辺のデパートで買ったものと思ってたじゃない。まったく信用なりません」
僕は、口を噤むことになる。悪かったよ、こうした話題をもちだして、でも、そこで、祖母は言うんだ。
「この子は、勘がいい子だったからね。全くなかったことではないわねえ。私も何も確信はないわ。でも、なんだかね。あったと思えばあったような気がしてくるわよ」
伯父さんは、すぐに居直って、
「そうだな、あったと思えばあったよ。あったような気がする」
僕も、あったと思いつづけていた、だけかもしれない、と考え直す。そして、事実なんてものは、なんとも弱々しいものであることを思い出す。
「そうだね。何が実際にあったかなんて、今となっちゃわかんないね。それはそれさ。僕は、自分がどちらを信じることができるか、それだけを思うことにするよ」
「それで、あなたはどっちを信じるのよ」
「そりゃ、もちろん、あったと信じるよ」

 赤ん坊と呼ばれるに相応しいなりで、僕は祖母の膝の上に腰掛けていた。祖母は、団扇を仰いでいた。時折、空砲が、川上の方で鳴った。
 今夜は、お祭りだった。先祖参りに、まだまだ多くの人が故郷へ帰る習慣が残っていた。僕も、その波に合わせて、祖母の家に、父の生家に連れてこられていた。
 もう少し、歳をとると、僕はその祭りに対して、複雑な思いを抱くことになる。もっと歳をとれば、つまり、獅子舞は、大人の脅かしだって、理解するころになれば、僕にとってお祭りはただ楽しいものとなった。
 赤ん坊には、親指をしゃぶる癖があった。関節のところにいつも、タコが、できて、赤く腫れていた。
 空は、晴れ上がっていた。
 昨晩、台風は過ぎて、ほとんど全ての雲を持って行ってしまった。置いてけぼりの一欠片の雲は、群れからはぐれた子羊を思わせた。
 赤ん坊は、その雲を眺めているようだった。
「ミケが帰ってきたよ!」
 言うのは従姉妹のマリーだ。赤ん坊は声のする方を見る。マリーは、日に焼けた肌を惜しげもなく太陽に晒していた。白いワンピースは、蝉の叫びに染まって、日差しを照り返した。
祖母は、眩しげにマリーの方を見た。
「もう、帰ってこないかとおもっていたわ。マリ、ミーはどちらから来たかい?」
「林の方よ」
祖母は、一貫してミケのことをミーと呼んだ。この家に住んだ猫は、他にもいたが、みなみなミーと呼ばれる。ミケ、ミミ、ミト、ミスケ、ミタロウ、ミモ。ミケが何代目のミーであるかは、もう誰も知らない。祖母が小さい頃から、猫は家に住み着いてきた。
 マリーは、ミーを抱っこして、祖母のところへ連れて行った。ミーはされるがままに縁側に置かれた。
「ミー、どこへいってたのかい。今回ばかりは帰ってこないかと思ったよ。月が一回りしたわ。明日は満月よ」
ミーは素知らぬ顔で、縁側の日陰に丸まりこんだ。あくびを一つすると、薄眼を開けて、祖母と赤ん坊を眺めた。
 赤ん坊も、じっと猫を眺めた。
「あら、よーく、見てるわね」
赤ん坊と猫の間に、まっすぐな光のやりとりがあった。
 一人と一匹は、まるで、お互いの存在を、無心の眼差しで交換しあっているようだった。
 ミーの瞳はまん丸く、ガラス玉のように透き通っていた。
 赤ん坊の黒目は、全ての光を飲み込む。
「ねえ、ミケの尻尾が、われているの」
「あら、マリ、本当ね。昔の人は、化け猫の尻尾は二股にわれているっていったわ」
「化け猫ってなあに?」
「お化けのネコちゃんのことよ。自分より一回りも二回りもおおきな犬を食べたり、池から鯉を、浮かばせて取ったり、人間も手玉にとって、家に居ついて、いつのまにか家主になりすましちゃうのよ。そして家主は、森へつれてかれてしまうの」
「嫌だわ。そんな猫」
「でも上手く付き合うと、色々力をかしてくれるときもあるそうよ」
「昔のお宝が埋まっているところを夢で教えてくれたり、如何わしい商売人を家に入る前にドブに落としてくれたり、お肉屋さんや魚屋さんがよく美味しいものをくれたり、まあお化けって言ってもね。怖いことばかりじゃないのよ」
マリーは不服そうだったが、一応は納得したように、
「わかった、あたしは、ミケが化け猫でもかまわないわ。でも、怖いのはやめてちょうだい」
と、ミケに向かってピシリと言い放った。
 猫は、耳と尻尾をピクリとさせ、ごろりと寝返りを打って、そっぽを向いた。
「あらあら、案外図星かもしれないね」
祖母は、笑っている。祖母の様子をみてか、マリーは安心したようだ。
「あたし、キクおばちゃんのところ行くね」
マリーは台所の方へ、駆けて行った。
 マリーが去ると、静けさが、戻ってきた。夏の午前、蝉の鳴き声は、青空の青のごとく背景に溶け込み、意識の裏側へ沈み、その音色は、かえって、その静けさを深めた。
 祖母は、なんとなしに、池の向こう側の、茂みを見ていた。
 すると、低木の枝の隙間から、狐がひょっこり現れた。
「あら、珍しいわ、里に降りてくるなんて」
祖母は、久しく、狐の姿を見ていなかったので、懐かしく思った。昔は、よく里に降りてきたものだ。
 狐の額には、白い筋がはいっていた。
「あら、そこだけ白髪なのかしら…」
「何か心当たりがあるわ。でも思い出せない白髪の狐。はて、いったい…」
 祖母は、赴くままに昔のことを思い出していた。
「牛乳瓶を、配って回ったわね。牛は、そうねえ、二十頭はいたんじゃないかしら。丁稚の奉公さんも沢山いたわ。なんだかんだって出たり入ったり。父は、ぶらぶらしていたわね。まあほとんど俳句三昧。離れなんか建てて遊んでいたわ。あの頃は、上に立つ人ほどそうやってのんびりしてたのよ。店は番頭さんに任せてね。よく父の自転車の後ろに乗って、本家のお墓参りにも行ったわ。途中の追い剥ぎ坂は怖くて、頭巾をすっぽり被って、父にしがみついたわ。父は、自転車が好きで車が普及しても、半日かけて蔵町へ行っていたわね。それでいて、ハイカラなところもあったのは不思議ねえ。娘たちをみんな寄宿学校に入れてしまうんだから。戦争の後は、学費を工面するのに苦労したわ。でも、先生たちもみんな、苦労してたから、私たちは、牛乳で立て替えてもらったわ。みんな協力しなきゃどうにも生きていけないことなんて、当たり前だったもの。地方の同級生は、一家総出で、米や醤油、砂糖や塩、芋、をもってきてくれたわ。たっくさんのさつまいもを一度に蒸して、みんなで食べたわ。うちでは裏の畑で、さつまいもも馬鈴薯も、里芋もこしらえて、キュリやナスやトマト、なんでも作っていたわ…」
祖母は、知らず知らずのうちに、声に出して話していた。自らに語りかけるように、傍目には赤ん坊に語りかけるように。
「義母さんが亡くなったのも、生家の近くの病院だったわ。大往生だった。義父さんが亡くなってから四十年は経っていたわね。面白い人だったわ。こう、洒落が効いていてね。信仰深い人だったけど、肩肘張らずにやっていたわね。なんのかんのと話にのっているといつのまにか、聖書の購読会に参加することになって、頭をかいている人が幾人もいたわ。でも、そのうちの少なくない人が、結局信仰深くなって行ったわね。あれは、お義母さんのわざだね。それで、随分と幸せに生きて行った人たちもいたわけだから、感心しちゃうわ」
一息に話してしまうと、また、しばらく、ぼおっと庭を眺めていた。そして今度は、赤ん坊に向けて、歌い始めた。

 さまようもりに うつくしの 
 そらにうかぶは しろいくも
 やもすれ たもすれ ことばかな
 たれぞのことばかわからぬが
 よにいうかたちはすぐきえゆくと
 そのこえたしかにいいえども、
 なにもしらん
 あす
 あさって きみはみるのだろう
 ひとよにうかぶうつせみの
 かたわらそらには しろいくも
 だれもだれもというけれど
 そこはかとなくただよう そふのけはい
 たそがれの はためにうかぶしろばんば
 うしなわれたみんなは
 ぽかりと浮かぶつきのよう
 くちにうつすは だれのもの
 よにきえ、さとにかえり、
 帰依するこころの行方はいかに
 われ たのもうせかいの主に
 とこしえに灯りつづける
 ふかなるほのうのいどころいかに
 ただ、さまよう かみさまとんぼの
 うしろすがたをおいかけて
 いけにおっこちた
 そこふかき小さき池に
 はごろもを背負ったゲンゴロウが一匹、わたしを導き、真四角の入り口へわれを連れて行く
 巨大なこいの横顔がぬっと側からあらわれる
 ひかりはとどけど 薄闇に
 ぼわりとうかぶその目のふかさ
 わたしのからだなどひとのみにしてしまうわい
 ゲンゴロウはわたしに呼びかける
 そっちじゃないよこっちだよ
 そっちじゃないよこっちだよ
 はたときづいてわれはむく
 大伯父さまね ゲンゴロウ
 なつかしき、金の首輪をはめて、器用に六っぽん足を動かして
 どんどんふかくへ潜って行くよ
 われはすすむよ どこまでも
 ふかいふかい池の底、ぬければそこには、底なしの村
 村には、みんなが住んでるよ
 ミミも、ミコトも、ここにいる
 われは、手を合わせておじぎする
 すると、みなして、われにかけより、
 ひとりひとり口づけし、無言で去って行く
 されど、そこにわれ、みしらぬ老人みたり
 ふたりは、手をつないでわれによる
 そして、ふたりで同時に われに口づけす
 すると、われのからだふくらみて、
 村いっぱいにひろがりて、
 シャボン玉となりて、この村を包み込む、
 村は浮んで、ほわほわと、どんどん、上へいくのだよ
 雲こえて、空の果てまでやってきた
 真っ暗闇の天井に、われはぶつかりそうになり、破裂をかくごする
 けれども、そのまま、われはのみこまれたり
 むらはぷかぷか浮んで行くよ
 四角い入り口が閉じて行くよ
 羽衣背負ったゲンゴロウがシャボンの周りでおどっているよ
 どんどん浮んで、今度は真っ白な天井がみえたよ
 こんどこそ破裂すると思うと、巨大な鯉がやってきて
 シャボンをあたまにのせるのよ
 そのまま、一気にとびあがえり、われは、光の天井飛び越える
 するとシャボンのわたしは、弾け飛び
 村は膨らみ、そのまま、この地に、その村現れる
 われ、一人、雲となりて、雨となりぬ

「はていったい、わたしはこの歌物語をだれにきいたのやら…」
赤ん坊は、祖母と同じ方角を眺めていた。

 午後になると、親族と、隣人がぞろぞろと家に集まってきた。各々家から、ご馳走を持ち寄って、居間の大きなテーブルは、食べ物で一杯になった。
 寿司、刺身は、隣町から伯父さんが注文して持ってきた。
 ごぼうと人参と里芋の煮物、グラタン、クレソンのサラダ、生ハムとイチジクのアパタイザ、煮込みハンバーグや、鳥の丸焼き、キュウリとナスの浅漬け、味噌汁もあれば、かぼちゃの冷製スープもあった。叔母さんの料理と、祖母の料理が混ざり合って、食卓は忙しかった。そこに、隣人の、差し入れの赤飯や大学芋、いなり寿司が添えられた。
 酒が振舞われ、十年ものの梅ジュースが子供達の手に渡った。乾杯は祖父の一言であった。
「はい、みんなに酌はわたったかな。では、みなさん、今年も、健やかに、楽しくやりましょう、乾杯」
 大人子供入り乱れて、酌を交わして、口をつけた。祖父が、誰より早く、寿司に手を伸ばした。
「おい、お前らが、これを全部食べるんだ」
と、伯父さんが、寿司の並べられた丸い大盥を、子供たちのテーブルへおいた。
「あと、たりない奴には、うどんもあるそうだ」
 食べ盛りの子供たちは、怯まずに次から次げと平らげた。
 子供たちは、食事が済むと、早速お祭りへ繰り出した。大人たちの幾人かは、神輿を担ぎに、祖父は、商工会へあいさつへ行った。
 家では、叔母さんたちが一息ついて、紅茶を淹れて、ケーキを摘みならが、おしゃべりに興じていた。
 赤ん坊といえば、縁側に面する畳みの大部屋で、積まれた座布団の上を登って降りたり人形を投げては取りに行ったり、一人遊びに夢中であった。祖母はまた縁側に戻ってきて、時折訪ねくる、隣人たちに茶を出していた。
「昨晩、ひどかったから、今朝は櫓を組み直すのにうちの人は日の出前にでていったわ」
「今年は、花火の数をけちったみたいよ。うちの人は、ほら、花火狂いだから、随分怒っていたわ」
「まあ、かっちゃんは相変わらずね。もう小さい頃からずっとね」
「ほら、西内の方は、去年、倉本のお爺さんが亡くなって、お囃子の仕切りがかわったのよ。そしたら、てんでバラバラで、毎晩調子っぱずれの笛が聞こえていやになっちゃうわ」
祖母のところには、こうして、方々から町の様子が伝えられた。
 祭りは、景気良く進んで行った。あちこちで祝杯をあげる声や、お調子者の吟じの唸りがきこえた。
 来客の波が途絶えたころ、祖母は、茶葉を捨てに、台所へ下がった。勝手口のところの風鈴が、落ちて、割れていた。さっと、拾い上げて、井戸端の壺に捨てた。
 台所に戻って、キクにそのことを言おうとしたら、
「お母さん、血が出ているわ。ちょっと、どうしたのよ。絆創膏持ってくるわ」
みると、右手の親指から、血が垂れていた。
「あら、けっこう深くいっちゃったみたい。変ね。全然痛くないわ」
「お母さん、いいから腕あげて。すこしぎゅっとするわ」
キクの手つきは、慣れたものだった。そしてしばらくの間、じっと、母の指に自分の手を当てた。
「ありがとう。まあ、大丈夫よ。少し、じっとしているわ」
祖母は、台所の丸椅子に腰掛けて、腕をあげたまま食器棚に捕まるようにもたれた。
 いつかにもこんなことがあったような…
 祖母は眠くなっていた。うたた寝が祖母を襲い、白昼夢が彼女に降りかかった。

 ああ、そうだわ。私のおばあちゃん、おじいちゃん。
 私は、どうして、このことを覚えているのか不思議でありません。今となっては、それが本当にあったことなのか、こうして夢でみた、景色なのか、見当もつきません。
 とはいえ、あの突拍子も無い情景は夢にしか現れないものです。でも、後から、数を数えてみれば、どうしても、その数字は、ピタリとあってしまうのです。
 私は、生きたおばあちゃんとおじいちゃんが小さな人形となって、父と母と一緒に、インドのカレー屋さんにいったのです。人形はちょうど赤ん坊ほどの大きさで、顔だけが、私のよく知る老人のおばあちゃんとおじいちゃんでした。
 レストランは、とても豪華でありながら華美なところがない、美しい、庭園の中にありました。大きな池が、据えられて、私たちは橋を渡って、席に案内されました
 それはそれは美しい光景です。
 ハスの花は池に咲き乱れ、灯篭や、小さな東屋の佇まいはまさに、古来の印度の智慧の結実に思われました。私は、池に浮かぶひとつの島に、特に惹きつけられました。
 ご飯を食べたらあそこに行きたいな。
 子供の私は、何よりも、この場に漂う、美味しい食事の気配に参っておりました。お腹か減っていなければ、すぐにあの島へ行きたいと、走り出したことでしょう。
 席に着くと、私は、人形姿の二人が、転がりながら席に着く仕草をみて、なんて可愛らしいんだろうという気持ちが溢れます。
 二人の人形が、ソファーに腰を定めると、おばあちゃんとおじいちゃんの胸に、数字が書かれているのに私は気づきました。
 おばあちゃんは十二・二、おじいちゃんには八・六と丁寧に服に縫い付けられています。私は、何故か、その数字を、みて、おばあちゃんもおじいちゃんも老衰で死んでいって偉いなあと思っています。そして、その数字がどうやら、寿命に関係していると気づくのです。
 私は、食事のことはすっかり忘れ、そうか百歳から十二・二引いて、八十七歳と十ヶ月でおばあちゃんは死ぬんだ、と、合点が行くのです。おじいちゃんは九十一歳と六ヶ月だと。
 そんなことを考えていると、目が覚めます。夢のまた夢でしょうか。
 すると今度は、あの数字は、残りの寿命のこと言っているんだ。そうか。それなら、おばあちゃんは九十八歳と二ヶ月、おじいちゃんは九十八歳と六ヶ月だ、と思い直すのです
 あれ、私は、誰のことを言っているのだろう。
 私のおばあちゃんは、もっともっと若い時に私が小さな赤ん坊であった頃かそれ以前に死んでしまったのに。
 おじいちゃんのことも知らないわ。
 どうしたって、急に、こんなことを考えているのかしら。
 あれ、うちの天井が見えるわ…

 祖母は、ふっと、目覚めます。そして、今の夢は、私が見たものではないと、確信するのでした。祖母は、急いで、赤ん坊の元へ向かいます。案の定、赤ん坊は、崩れた座布団に転がって寝ています。瞑られた目は、天井を向いています。
「のぶちゃん、のぶちゃん。私は、今見たわ。のぶちゃんでしょう。あの夢の子どもは。私でもあったけれど、あれはあなたよ。そうかいそうかい。私は、九十八歳と二ヶ月生きるのかい。そりゃあ、嬉しい知らせだよでも、いったいどっちなんだろうね。八十七歳と十ヶ月ってこともあるわ。そうね。でも最後に、あなたが、希望していたのは九十八歳と二ヶ月よ。それなら、そちらを信じることにするわ」
 祖母は、赤ん坊の髪を撫でた。真っ黒い髪は、さらりと流れ、宙に浮かぶようにして、また次の居場所に収まった。

 その日の夕方から祭りの終わりに至るまで、立て続けにささやかな事件が起こった。
 狐のお面を被った、子供達が、つぎつぎと、獅子舞に向かって、反旗を翻した。先頭に立ってたのは、マリーだったと、後から、一部始終を見ていた伯父さんが、自慢げに言った。
「ありゃ、すごかったぜ。マリーは、向こう見ずなところがあるけど、あれほどとはね。ソリの時は、めちゃくちゃすぎて、周りの子供達もどん引きだったけど、今回は、巻き込んじまったな」
「それにしても、西内のところの笛は、ひどかったな。あれのせいだろ。きっと、そうだ子供達のネジが少し外れてもしかたねえよ」
「いやあ、子供たちはよく分かってらあ。獅子舞やってたお茶屋の息子、最近よく揉めてたじゃねえか」
「あれ、そうかい。それは知らなかったねえ。酒かい?博打かい?ガッハハハ」
町の衆は、銘々、面白がった。
 川下の方では、ボヤ騒ぎがあった。どうやら、花火狂いのかっちゃんが自作の花火を打ち上げようと画作して、失敗したそうだ。川辺の原っぱが全焼して、そこだけ真っ黒焦げになった。次の台風が来るまで、黒焦げ地帯として、子どもたち空想遊びの格好の相手となった。
 本家の花火がいっぱいに空に上がっていた時、お酒をたっぷり飲んで、気持ちよく眠っていた伯父さんが、血相を変えて、庭に飛び出した。そして、そのまま、池の水を抜いた。
「いったい、なんだっていうのよ!」
キク叔母さんの声は、花火の音に負けじと町内に響いた。
「夢を見たんだよ!庭の池に、金塊が沈んでいるってね。確かめて見なきゃ気が済まないだろ」
ずんずん、池の水が、なくなり、底が露わとなった。鯉たちは、底に作られた小さなために集まり、ひどい迷惑だといわんばかりに、水を跳ねた。
 池の底は空っぽだった。大笑いだった。伯父さんは、小腹が減って、ニンニクを焼いて食べた。祖母は、久しぶりに見えた池の底を、じっくり眺めていた。花火は、いつのまにか終わっていた。
 ミーは、祭囃子が聞こえなくなった頃、もそもそと起き出して、いつもの獣道の方へ、歩いていった。その姿を、見ていたものは、赤ん坊を除いて、誰もいなかった。赤ん坊は、アーアーと声をあげた。ミーは、尻尾を振りながら、振り返ることなく、小径の蔭に入っていったきり、見えなくなった。
 祖母が気づいた頃には、ミーの姿はなかった。

 縁側に腰掛ける、祖母の膝の上に、赤ん坊は座っていた。祭りは終わり、花火の煙は、風に流され、東の平野を、不気味な灰色で覆った。
 月は、対照的に、きりりと、山の上に昇っていた。
 私の目にはほとんど満月と区別がつかないわ、と祖母は思った。
 山肌は、黒々として、里を見下ろしていた。池の水は少しずつかさを増していった。
「ミーは、帰ったのね。」
と、祖母は赤ん坊に尋ねた。赤ん坊は、喉を鳴らしながら、全身をゆらゆらと動かし、手を上げた。
 母指は、月を指差しているように、見えた。

「のぶちゃん、おばあちゃんも、昔、こうして、のぶちゃんのような赤ん坊姿で、おばあちゃんの膝に座ったことがあるわ。そして、満月の前日に、指差すのよ。私はあそこから来たって。猫のミーはみんなみんなあそこへ帰っていったって、全身でおばあちゃんに伝えるのよ。すると月影に、ぼおっと、今度は、おばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんたちが現れるのよ。それはそれは、不思議な光景よ。みんな、月明かりの中で、なんだかほとんど同じように見えるの。でも、それぞれ、一人一人が、確かに、この地に足を下ろして、なにかを食べ、眠って、生きていたってことが、わかるのよ。それはいくらでも遡っていけるの。するとね。私も、いつのまにか、そのおばあちゃんたちのよこに加わって、立っているのよ。それで、この縁側に座る、娘や息子を眺めていると、次の日の満月がやってくるの。満月の光は明るすぎるから、私たちは、すっと、月影にすいこまれてしまうの。
 でも、その時、はたと思い当たるのよ。
 私は、まだ、この赤ん坊を抱いているわ。
 私は、ずっと、この縁側に腰掛けて、あなたのことを抱きしめているわって…」

 次の日の、朝、キクおばさんが、ニワトリ小屋に卵を取りに行くと、全てのニワトリが食べ殺されていた。羽毛は飛び散り、血が、そこら中に流れ、固まっていた。
 キクおばさんの叫び声に一家が目覚めた。
 祖母だけに、心当たりがあった。
 白髪の狐だ。
 あれは、ニワトリの羽だった。
 昨日の朝、丸焼きのため一羽をしめた時、扉の鍵を閉め忘れたのか。
 祖母は寝間着のまま、赤ん坊の元へ向かった。
 赤ん坊は、穏やかな寝息を立てて、一人、深い眠りの中にあった。

ぼくはおぼえているみんなみんな、
夏の日の 祭囃子が聞こえなくなっても
幾世もときが流れて、もはやどんな昔ばなしも届かぬ
かなた未来に生きていたとしても
ぼくはずっとずっと覚えているよ
記憶の底に、はたと横たわる そのひとのかげは 全てのぼくをつなぎとめるよ
赤ん坊だったぼくは、祖母のかおをみた
目尻に畳み込まれた皺に、くちもとの黒子に、程よく仕立てられ額に落ちる白髪に
ぼくは、古代から 人間に刻み込まれた生命の調べをきいた
赤ん坊のぼくは、声を上げる、
その声は稲妻のように世界にとどろき、
命の嵐を、渦巻く魂を
天にむかって歌い上げた
おばあちゃん、ぼくは、覚えているよ
こもりうたをうたってくれてありがとう
うちわであおいでくれてありがとう
おしりをささえてくれてありがとう
みんなみんな 覚えているんだ
誰になんと言われようと
このからだの底から立ちのぼる
命の記憶は嘘をつけない
ながれる涙の行方を知らず ぼくは、トボトボあるいているよ
雨が降ってきたよ 外は嵐がきたよ
怖い時もあるよ でも 大丈夫
ぼくは、覚えているよ みんなみんな 覚えているよ
忘れたりしないよ 忘れることはできないよ
こもりうたをうたってくれてありがとう

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