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【演劇のペーソスとユーモア】

【1】確か高校3年生の頃だったと思う。大学入試に向けてピリピリしてきた時期に、その気の焦りもあるのだろう。校内の空気が「荒れ」始めた。火災報知器がやたらとなるのである。

僕は幸いにも(?)中学で最悪の「荒れ」状態を経験していたので、進学校だった高校の「荒れ」の空気を察知するのは人一倍早かったのかもしれない。だいたい「荒れ」の兆候は①トイレや廊下が汚くなる、を経て②なぜか火災報知器が鳴る、という段階がある。ちなみに中学の最悪期は毎日②の状態だった。このころには廊下をバイクが走っていた。

「いたずら」を大半が見て見ぬ振りならぬ聞いて聞こえぬふりを決め込むところから「あれ」始める。「異常」が常態化し、耐性がつくと知らぬ間に延焼し、取り返しのつかないことになる。(火災報知器だけに。)少なくとも中学でその状況を目の当たりにした僕としては、授業中に数回鳴り始めた火災報知器の警報に一人やきもきしていた。

授業中、またしても報知器が鳴り響いた。どの教室も何事もなかったかのように授業を続行している。「犯人」はリアクションがないからこそ安心して「いたずら」は続くのである。

ところがその日は違った。突然高校3年生のひとクラスが全員グラウンドまで避難したのである!絶対いたずらなのに!

中高一貫校だったので多くの生徒がいる中、最上級生の高校3年生の1クラスが上履きのままグラウンドに駆け出していった。ハンカチで口を押さえたりハアハア息を切らしたりしている。煙たくもないし、たいして走ってもいないのに!
そのクラスはちゃんと「避難訓練」で教わった通りひとクラスだけで整列し、点呼して、上履きでグラウンドに出たことに満足げに教室に戻って行った。

我がクラスは担任の先生が明晰でユニークだったので、「次に火災報知器がなったらどうするか」というのをホームルームで密かに決定したのである。そして悲しい哉すぐに実行する日が来た、というわけだ。

翌日から火災報知器はピタリとならなくなった。

【2】大学生の頃には70年代から続く有名な劇団があって、著名な演劇人も輩出していたのだが、交響楽団に入っていた僕としては、新歓時期に裸踊りをして公衆の面前で口にするのを憚られる語句を叫びながら練り歩く迷惑集団という認識だった。21世紀のイメージアップのためにも学生運動の残党狩りに躍起だった大学当局の餌食になって、僕の卒業後には公認取消の目にあったようだが、実はこのサークルの顧問を長年務めていた先生が演劇学専攻の恩師だった。何度か学内の警告に遭うたびにこの先生がハンコをついて逃していたわけだが、一度だけ愚痴を聞いたことがある。

「ダメだ、あんなことやってちゃ。学内で違法なことをしている限りには結局それはモラトリアムでしかないわけですよ。大学という治外法権の中でどんなにはちゃめちゃなことをしたって社会から見ればモラトリアムな若者でしかない。だめだ、そんなことじゃ。


駅前でやれと言ったんだ。」


【3】感染症対策のために、校舎の入口に検温と消毒を自動でしてくれる「ピッとシュッ」が設置された(正式名称は分からない。そんな感じで書いてある。)
ただしこの検温機能、どうやら表面温度を測るものらしく、どんなに指示通り手首で測っても体温としては相当低く出てしまう。しかし下には貼り紙がしてあって「37.5℃以上が出た場合は事務室に電話してください。」とある。この機械で毎日欠かさず検温しているが、ほぼ僕の体温は34.1℃である。昨日は32.2℃だった。37.5℃ではないがそれ以上にすぐ帰ったほうがいい。

ちなみに実際どのくらいで37.5℃が表示されるのかを同僚と実験してみた。
彼は高速で手を擦り合わせ、1分後、汗を滲ませながら機械に手をかざすと、表示されたのはけたたましいピーという警告音とともに40.3℃という赤い数字だった。

表面温度でどのように表示されるのかを知らないで設置しているのだとしたら教えてあげなければ、と思ったのだが、その必要がない、という確信を得る場面に遭遇した。混雑時にはわざわざ職員の方が出て機械の横に立ち、「低すぎて測れない」という学生のために手持ちの非接触型体温計で丁寧に測ってくれるシステムが採用されていたのである。

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いずれも社会の仕組みのほころびやひび割れの部分だ。そこをその場で「糾弾」するのが演劇の力ではなくて、その部分に悲哀とおかしみを見出し、自分の中の痛みを伴った擦り傷として身に沁みこませておく。痛み自体はいずれ忘れる。傷跡自体もいずれ消え失せる。しかしいつでもその傷跡を、あるいは傷があったことを思い出して痛みを語る「ことば」に表現者としての真価が問われる。

ないもの、失われたものを語ることばと肉体。

ここでいうことばとは「発声」のことではなく、身体言語(身振り)であり、美術であり、音楽でもある。

コロナ禍で感じた理不尽による憤怒、衝撃、不安、悲惨は計り知れないはずだ。その痛みや傷跡を失った時、肉体は何を語ることが出来るか。それが演劇のペーソスとユーモアはそこにある。


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