エッセイ ー「潮境 第3号」によせてー

エッセイ ー「潮境 第3号」によせてー


 十五年ほど前、沖縄の某賞に詩集を応募した際、受賞者発表の後日選考委員のひとりに呼び出され「おまえは今後俺の言うとおりに書け。そうしていればそのうち賞をもらえるかもしれないよ。俺のそばにいないと嫌がらせがくるぞ」と吹き込まれた経験がある。それ以前から沖縄詩壇とやらの先達らが新聞などにて、批評と称し人格攻撃のような文章で他の書き手や若手を叩いているのをよく目にしていたので(一応嫌がらせをしているという自覚はあるのだな)と納得した。選考者に取り入れば誰でも通るような賞や美術展が沖縄に長年あるとすれば、沖縄の文化芸術面が未だに軽んじて見られたりする要因もそこにあるのだろうが、そういったものに通ると経歴の汚点になりはしないか。また主張がその時々で二転三転する人の批評を見ると、本来有りもしない正解や不正解を打ち立てた上でただツラツラと原稿の文字数を稼いでいるのではないかという印象を受ける。詩人という肩書きが詐欺師の隠れ蓑になっていることがないか。そもそも表現者とは何だろうか。
 「あなたは沖縄に生まれたのだから、反戦の詩を書きなさい」と若い書き手に吹き込む先達の話を昔からよく聞くのだが、それでその書き手が言われたとおりに反戦の詩を書いたところでそれはもはや表現ではないだろう。沖縄を扱った作品というものに「青い空と青い海、三線や島唄」などの要素を求める本州の風潮は確かに変だが、「沖縄戦や基地問題」の要素ばかりを他者の作風に求め他を認めないのもなかなか変である。沖縄に生まれたというのはあくまでその書き手のルーツでしかなく、使命を左右するものではない。そもそも自分なりの表現で己の生きてきた沖縄、見ている沖縄を書いている若手は以前から確実に居り、決して沖縄から目を背けているわけではない。「こんなものは詩じゃない」「君は今後何々を書け」「本州の書き手の真似をするな」ということを指摘する行為も批評や指導とは程遠いと感じる。せめて己が真剣に他者の作品と向きあえているかどうかという点にこそ想像力を使ってはどうか。自己と他者の境界を認識できないとなると心療内科の出番だと思うが。
 狭く閉鎖的なコミュニティとは結局のところ狭く閉鎖的な環境を欲している人間らが作っている。ことに普段から早いペースで本を出版し県外の賞を欲しがっている書き手をちらほら見るに、なるほど文芸出版は金持ちの道楽と言われるのも頷ける。賞が欲しいからという動機で本を出版する書き手が居てもいいと思うが、まず賞賛や権威を欲しがるような人間の感性というものに疑問を持ってはどうかとも思う。図書館が書籍を長年保管してくださるだけで良くはないのだろうか。


(2023年12月沖縄詩人アンソロジー「潮境 第3号」にて発表)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?