「教える」は「驚かす」が変質したもの

私たちはすぐ教えたがる。子どものため、部下のため、という口実で。「教える」は本能じゃないかと思えるほど。でもそれは恐らく、子どもの頃に親に驚いてもらおうという欲求が転じたもの。「教える」ことで子どもや部下に知識のあるところを驚いてもらおうとしてるのかも。しかしそれだと。

子どもの、部下の、驚いてもらいたいという欲求を叩き潰すことになる。親が、上司が、すでにそれを知ってることに気づいて。たとえ自分が何か発見しても、親は、上司は、とうにそんなことはご存じなのだろう。当たり前のことなのだろう。となると、新しい発見も色あせ、学ぶ意欲も減退する。

「教える」は、「驚かせる」という楽しみを奪う行為。子どもは親に驚いてほしいのに、親は子どもが言葉を理解できるようになると、ついつい教えたくなる。子どもに「へー!」と驚いてほしくて。それでもまだ、就学前なら、親も子どもの成長に結構驚いてくれるから、子どももそんなに残念に思わない。

けれど、小学校に通うようになったとたん、親は子どもを他の子と比べ、落胆する。点数を見て、100点より何点マイナスだと考えて落胆する。極端に驚かなくなる。子どもが何か発見しても親は驚くどころか「そんなことより勉強しなさい」。さらにその上。

親は勉強を教えようとする。これでは、何かができるようになっても親は驚かない。教えるくらいなんだから当たり前だと思ってる。何をやっても親は驚かない。そんなものに子どもは興味を失ってしまう。つまり、勉強に興味を失ってしまう。

相手を「驚かす」権利は子どもに譲り、親である自分は「驚かされる」立場になる必要があるように思う。それには、自分の中の、人を驚かせたいという欲求をどう料理するかが課題になる。それが大人になる、ということの一つなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?