「センス・オブ・ワンダー」こそレイチェル・カーソンの本領

今日はレイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」の読書会。この本は、私の教育観をガラリと変え、方法論から何から全部再構築するきっかけになった本。あまりに感動が強く、翻訳者の上遠恵子さんと手紙のやり取りもさせていただいたり。友人に子供が生まれたら、この本を贈ったり。ところが。

無反応なことがしばしば。「きれいな写真だね」という返事だったり。ええ?そこじゃないでしょ感動するところは!と思ったけれど、そうか、私がこの本から強い衝撃を受けたのは理由があったのかも、と思い直すようになった。それには二つある。

私は、塾に来る子供たちにどう指導したらよいのか悩んでいた。もし自分の知識を子どもに説明し、伝えるのが教育だとしたら、教育とは自分の劣化コピーを生むだけなのか?と。そしてたまに生まれる天才によって変革が起きるだけなのか?教育は無力なのか?と、悩んでいた。

塾に来る子どもたちは、素質において私より劣っていると思えない。むしろ私より優れている。しかし私以上に学習達成度が高くなるように指導ができない。これでは子どもたちに申し訳ない。私みたいな質の低い指導者に当たって申し訳ない、と悩んでいた。

もう一つの理由。この本を読むずっと前に同じレイチェル・カーソンの書いた「沈黙の春」を読んでいた。「沈黙の春」から浮かぶ著者の人間像は、さぞかし戦闘的な人なのだろう、と思った。だって、私が子どもの頃でもまだそうだけど、化学メーカーにケンカ売るなんて正気の沙汰じゃない時代だから。

ある日、カーソンが議会で証言している映像がテレビで流れているのを見た。意外だった。そこにいたのは、おとなしそうな、物静かな、怒るということを知らなさそうな女性。考えを淡々と述べるけれど、化学メーカーを糾弾するというような戦闘的な感じを全く受けなかった。本の内容と全然一致しない。

そうした二つの思いがあった上で、「センス・オブ・ワンダー」を読んだ。甥のロジャーと雨の森に探検に出かけ、しずくできらめくコケをみて「リスさんのクリスマスツリー」とか呼んだり、夜の海の崖っぷちに立ち、波の轟を全身で感じ取ったり。そんな記述があった後で、カーソンは驚きの一文を書く。

「わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。」
この言葉は、私にとって天地がひっくり返るような衝撃だった。子どもたちに私は知識を教えようとしてきたから。

でもそういえば。思い当たることがあった。塾では、子どもを山か海に連れていくことにしていた。ある年、海に連れて行くと、ボーイスカウトを10年も続けているという子どもが「何にもないやんか!ゲームセンターは?コンビニは?」そんなものはない、海で遊べば?と言ったらがっくり肩を落とした。

そして持参の携帯ゲームを始めた。ボーイスカウトを長年やってきたというのに海で遊ばず、ゲームで遊んでいるなんて変な奴だ、と思っていたら、同行していた親御さん、自動車からテレビを出し、冷蔵庫からビールを出し、家の中さながらを再現して楽しみ始めた。その親の語るには。

この子を小さなころから自然のあるところに連れて行った、という。でも質問して様子をよくよく聞くと、子どもが途中で草花や虫や鳥に興味を持っても「そりゃ自然の中にはたくさんいるよ、さあ行こう」と手を引き、早くキャンプ地でビールを飲みたくて急いだという。

キャンプ地に着いたら子どもが退屈しないよう、マンガや携帯ゲームを与え、自分は一杯ひっかける。そうしたボーイスカウトだったらしい。そうか、この子はきっと幼いころは自然の事物に興味があったのだろうけれど、親に引っ張られているうち、自然はすべて「路傍の石」化してしまったのか。

同じく、10年近くボーイスカウトをやっていた別の子は、海を見たら走り出し、ヤドカリを発見、巻貝を見つけそれを割り、釣りをしていたかと思えばフナ虫を追いかけっこ。キャンプファイヤーをしようと流木を集め、海を満喫していた。その子は生き物の名前をよく知っていた。

かたや、海を見て「ゲームセンターは?」と言った子は、生き物の名前をたいして憶えていなかった。理科に興味関心がなく、だから記憶力も理解力も悪くないのに学習が進まなかった。自然や生き物がすべて、無視してもかまわない「路傍の石」になっていたのだろう。

「「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない」。ああ、その通りだな、と思う。興味関心があれば子どもは放っておいても学ぶ。それについて深く知りたくなるから。もしテレビや本でそれを見た時、「あ!海で見たやつだ!」とすぐわかる。そして名前も一発で覚えてしまう。

前にも紹介したエピソードだけど、同じすさみの海で、帰ろうとした親子が。「ここ、星がきれいだから見てからお帰りになったら」と勧めた。夕食後、空を眺めるとお父さんが「残念、曇っていますねえ」私は「何言っているんですか、これ全部星ですよ」というと、信じなかった。しかし。

地平線に浮かぶ雲が動くのに対して、空一面の雲は動かない。どうやら無数の小さな星が見えすぎて、雲のように見えていたことに気が付いた。それでご両親は衝撃。「これ、本当に星なんですね!」親が驚いている様子を見て、どうやら大変なものを目撃しているらしい、と真剣なまなざしの子ども。

ゆっくり動く光の点を指し示し、「あれ、人工衛星ですよ」というと、ご両親が「え?人工衛星って見えるんですか!」とまた驚いた。「人工衛星は自ら光らないけれど、すごく高いところを浮かんでるから、あの辺はまだ太陽の光が当たって、反射して見えているんでしょうね」親御さんはへええ!と驚き。

親が驚いているものだから、子どもも「どれ?ねえ、どれ?」と興味津々。そして「ほんとだ!少しずつ動いている!」
「星は近い星でも4光年、4年前の映像を私たちは見ているんですね」と解説すると、親御さんは「え?四年前の光を見ているんですか!」と驚きの声。それにまた強く反応する子ども。

その親子は、私たちは眠りにテントの中に入っても、星空を眺めていた。翌日、私たちが帰ろうとすると「もう一泊して星を眺めようと思います」と親子。
ここで大切なこと。私の星に関する知識を披露したことに大して価値はない。それ以上に大切なのは、親御さんが子どもの前で驚いて見せたこと。

親が心の底から驚き、感動し、引き込まれている様子を見て、5歳くらいの子どもだったけれど、どうやら大変なものを見ているらしい、と、子どもも強く関心を持った様子。この調子ならこの子どもは今後、宇宙に関する本とかテレビ番組を見たら、強く関心を持つようになるだろう、と思った。

「ゲームセンターは?」と言った子どもとは対照的に、親御さんが知識をひけらかすのではなく、子どもと一緒に驚きの声を上げ、感動していると、子どもは強く興味関心を持つ。それが学ぶ動機になって、自分の目にしたものに近い情報に出会ったとき、「これはそういう名前だったのか!」とうれしくなる。

知ることは感じることの半分も重要ではない。その通りだと思う。そして、自然や生命に驚き、感動した体験は、おのずと興味がわき、知識欲になる。それに近い情報に触れた時に敏感に反応する。アンテナが張るようになる。だから、自然に知識がつく。そうか、「知る」は後なんだ!

「教えない教え方」にたどり着くきっかけになった。私が教えようとしなくてもよい。子どもが自然や生命の神秘さ、不思議さに目を瞠り、驚く感性(センス・オブ・ワンダー)が育てば、知識は後で勝手についてくる。しかも、それは一緒に驚いていた大人さえも凌駕するような勢いで。

「出藍」という言葉がある。藍という植物から生まれた青という色は、原料の藍よりも濃い青になるということから、弟子が師匠を超えるような人材に育つ意味になっている。そして出藍はおそらく、センス・オブ・ワンダーにこそカギがある。この世界に驚き、楽しんでいれば、子どもは勝手に成長する。

私の持っているつまらない知識なんか、伝える必要はない。今の時代、情報はいくらでもあふれている。本を読めば解説はいくらでも書いているし、ネットで調べればいくらでも出てくる。けれど、この世界に驚き、楽しむ気持ちがなければ、学ぶ動機も何もない。それでは学びが生まれない。

それから私は、驚き、楽しむようになった。こちらが驚いていれば、楽しんでいれば、子どもたちは勝手に引き込まれる。そして子どもも何かを発見し、驚き、楽しむようになる。そうなりさえすれば、子どもは勝手に学びだす。教えなくたって構わない。一緒に驚き、楽しんでさえいれば。

そこではじめて、あんなに物静かで穏やかなカーソンがなぜ「沈黙の春」を書いたのか、理解できた。
悲しかったんだ。自分の大好きな生き物たちが次々命を落としていくのが。つらかったんだ。自分たちに感動を与えてくれていたものが、姿を消していくことに。

カーソンは生物学者で、生物の名前がいくらでもヒョイヒョイ言える人だった。だから甥のロジャーにも、生物の名前を教えることくらい、朝飯前だったろう。けれどカーソンはそうしなかった。それよりも、目の前のものを感じ、発見し、驚きの声をあげ、楽しむことを何より重視した。

だからこそ、カーソンは言葉を話さない生き物たちの悲鳴が聞こえたのだろう。苦悶のうめきが聞こえたのだろう。だから「沈黙の春」を書かずにいられなかったのだろう。「センス・オブ・ワンダー」を読んで初めて、カーソンがなぜ「沈黙の春」を書いたのか、理解ができたように思った。

・・・なんていうことを説明して、なぜ読書会で「センス・オブ・ワンダー」をお勧めしたのか、説明した。これは、私の子育て観の土台になった本。けれど、そう受け止めるまでに、いろんな紆余曲折があったからこそ、強く感銘を受けたのだろう。カーソンが書いたのでなければ、私も無感動だったかも。

レイチェル・カーソンが書いたからこそ、この本は驚きがあった。誰よりも生物の知識を持つ人が、「知る」は「感じる」の半分も重要でない、と言ったり。化学物質を糾弾したかに見える人が、ただひたすら、自然や生命の神秘さに目を瞠り、驚いて見せたり。そのギャップに「なぜだ?」が生まれたのかも。

「センス・オブ・ワンダー」は、絵本ともいえるような薄い本で、ゆっくり読んでも30分ほどで読めてしまうような内容。けれど、私にとって非常に示唆に富む本だった。カーソンの本領は、「沈黙の春」より断然こちらなのだと思う。自然や生命への驚きこそが、カーソンの本領なのだと思う。

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