「強いリーダーシップ」が「コミュニケーション能力」という名の忖度を求めた?

つい最近まで、就職する若者にコミュニケーション能力を求めてきたの、もしかしたら「強いリーダーシップ」のせいかも。
小泉旋風吹き荒れた後、日本ではミニ小泉が増殖、トップダウン経営が目につくようになった。トップの言うこと聞かないヤツは飛ばす。孤独な英雄気分に酔う経営者が増えた。

部下たちを抵抗勢力とみなし、邪魔するヤツはバッサバッサと切り倒す。正義の味方気分なんだろうけれど、部下は自分より立場弱い人間なんだから、ただの弱い者いじめなんだけど、脳内では抵抗勢力と戦う孤独なヒーロー気分に変換されているのかもしれない。

完全に「裸の王様」。ああ、ここで「王様は裸じゃないか」と指摘し、大笑いしてくれる子どもがいたらなあ、と思ったら。あれ?コミュニケーション能力の高い人間ばかりだと空気を読みまくって、王様の気分を台無しにするようなことは言わないのでは?みんな「大人」なんだね。

そうか、そう言えば、全国にミニ小泉が増殖してしばらくしてから「コミュニケーション能力」って言い出したな。私は、ゆとり教育の影響で塾通いが増え、遊びが減り、コミュニケーション能力の高い若者が減った影響で、コミュニケーション能力を求められるようになったのかな、と思ってたけど。

空気の読めないヤツを雇って、「うちの社長、裸の王様ですやん」なんて言おうものなら、上司の自分たちにまでとばっちりが来る、ともかく定年になるまで穏便に事が進んでほしい、という「大人の事情」で、コミュニケーション能力を求めるようになったのでは?

だとしたら深刻。社内に空気の読めない「子ども」がいない。社長を裸の王様だと直言できる人物がいない。「失敗の本質」が警告した、空気ばかり読みまくり、問題を指摘する者が出にくく、たとえ問題を指摘されたとしても言い負かしてトップの思い通りの方針を通してしまう組織に日本中がなっている。

山本七平「空気の研究」によると、日本人が空気を読み、空気に従うようにようになったのは軍国主義が強まったあたりからだという。明治の人間はともかく空気を読まず、空気ができそうになったら「水を差す」ことに熱意を持つ人ばかりだったようだ。

だから、空気を読むのは日本人の伝統、というのは誤り。比較的歴史が浅い。また、戦後はその反省もあり、空気を読まないことに誇りを持つ人間もあちこちに。そうした変人枠を大切にする度量が組織にあった。一つには、敗戦の焼け野原からやり直さなければならない草創期だったからかもしれない。

日本が再生するには、「子ども」が必要かもしれない。空気が読めず、あるいは読もうともせず、水を差す変人枠が。王様を裸だと笑える組織でないと、日本は組織ごとタイタニックになりかねない。みんな、あんまり「大人」にならずに「子ども」の部分を残しておきたいものだ。

ところで、今の日本の組織で、「子ども」がいたらどうなるのだろう?王様は裸だ、と口にしたとたん、その口をふさぎ、その場から引きずり出し、しこたま叱り、どこかに閉じ込め、王様に「裸なもんですか、あいつの方がおかしいんです」ともみ手する人間の方が多いのかな。

だとしたら、子どもが出てもダメか。子どもの口をふさぎ、場合によっては二度と表に出られなくする「大人」ばかりだと、結局は元の木阿弥。
やはり、「強いリーダーシップ」なるものの効用をみんなが疑い、変人枠を許容する文化を取り戻さないとうまくいかないかもしれない。

変人をも包摂する社会でなければ、強いリーダーシップのつもりで悦に入る人間がトップに座る弊害も、それに追従ばかりする「大人」ばかりになる弊害も食い止められない。変人という「子ども」を排除せず、むしろ面白がるくらいの文化を取り戻さねば。粘り強く訴えていきたい。

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