情報を捨てるには

物分りのいい人(子)と悪い人(子)がいる。これを「理解力の差」ととる人が多いけれど、私はそうは思わない。物分りののよい人は「あまり考えずに捨てることができる人」、悪い人は「考えすぎて捨てられない人」だと感じることがほとんど。

私は典型的な物分りの悪い子で、中学三年生になるまで文章問題が壊滅的だった。「太郎くんは駅まで時速2キロで歩いて駅まで、花子さんは時速4キロで自転車で」という問題を読んだとき、「なぜ花子さんは太郎君を乗せて上げなかったのか?二人乗り禁止だからか?」とよけいな方に考え過ぎた。

文章問題から連立方程式を作る際は、太郎君や花子さんという情報、歩いてるか自転車かという情報を捨て、数字だけの関係に着目する必要がある。物分りのよい子はこの「捨てる」ができる。たとえ太郎君が次郎という名前であろうと、花子さんが自動車を乗り回そうと、それらは捨てればよいと見抜ける。

しかし物分りの悪い子はそれらの情報も数字と同じように重要な情報かもしれないと思い、捨てられない。太郎君や花子さん、「歩く」と自転車といった情報を抱えたまま、捨てずに考えようとする。そんなだから数字の関係性を考えるゆとりがない。頭がパンクして、一向に考えが進められない。

私が塾で子どもを指導する際、わざと太郎君を次郎君に置き換えただけで、ほかは数字も何もかも同じ問題を並べて渡した。何なら2問だけでなく、花子さんを友子さんに、歩きをスケボーに、自転車を自動車に置き換えるけど、数字は同じ問題。

すると、「物分りの悪い子」は、太郎君が次郎君に置き換わったのは、何か重大な意味があるに違いないと思って、私の目を覗く。「太郎君が次郎君に変わってるだけだけど、答えが違ってくるの・・・?」
私は素知らぬ顔して「さあ、計算してどうなるかなぁ。やってごらん」と任せる。

すると、太郎君が次郎君に変わっただけなのに、まるで違う式を創造し、別の答えを導いたりする。
私は「面白いねえ!でも違うんだなあ」と言ってバツをつけ、もう一度解いてもらう。その生徒のそばに座って、その子が私の顔を覗きながら、いろいろ質問してくるのに受け答えする。

でも、基本、教えない。教えないかわりに着眼点とヒントを示す。「これ、どうなってるの?」「ここはどういうつもりで?」「教科書に例題が載ってるから、それを参考に解いてごらん」。
太郎君が次郎君になっているのには深い意味があると思いこんでいる子は、なかなか気づかず、大混乱。

1時間、時には2時間混乱したままの子もいる。それにつきあう。最終的に解けたとき、「先生、だましたな!太郎だろうが次郎だろうが、解き方も答えも一緒やないか!」私は「バレたか」とニマニマ笑う。
「じゃあこの問題は?」と、今度は自転車が自動車になっただけの問題を出す。

「もう騙されるか!」と言ってサッサと解ける子もいれば、「いや、自転車が自動車になるのにはそれなりに意味があるかも」と混乱する子もいる。私はその混乱につきあう。そしてできれば、せっかく混乱したのだから、しそうな混乱をここですべて経験してもらおうと、あえて混乱しそうな問いかけを。

「自転車と自動車が違うだけで数字とかはみんな同じだし、さっきと同じように解けばいいのかなあ?」と私の目を覗き込んでくる。私はニヤリと笑って「え〜、そうかなあ?まあ、そう思うならやってごらん」というと、「ええ〜っ!」と頭を抱えて混乱する。私はそうして、わざと混乱してもらう。

1時間くらい混乱した末に、結局同じ解法と答えでよいと分かった子どもは、「先生、まただましたな!乗り物が変わっても解き方も答えも一緒やないか!」
「バーレーたーかー!」とアハハ笑い。こうして散々混乱し尽くし、迷いに迷った体験をすると。

もう騙されなくなる。「え〜?これ、太郎君が三郎君になってるけど、同じ式でいいの?」と揺さぶっても「もう先生には騙されん!」と言って迷いなく、人の名前や乗り物の種類などの情報を捨てて、数字の関係だけ抜き出して考えられるようになる。

この指導法にたどり着くまでは、私も「数字の関係にだけ着目すればいいんだよ!太郎とか次郎とか関係ない!」と教えていたのだけれど、子どもは納得していなかった。「今回はそうかもしれないけど、別の場面ではやはり次郎君に変わったことが影響するのでは?」という気がしてならない。

だから私は、「先生」と呼ばれる立場の人間がそばに座って見守っているにも関わらず、1時間以上も混乱させられ、迷わされるという強烈な体験をしてもらうことで、「先生の目を気にせず、先生の言葉に惑わされず、自分の観察だけを頼りに、自分の頭で考えた方がよい」と痛感してもらう。

自分の頭で考えられない人、子は、自分で考えられないのではない。これまで散々叱られ、あれこれ教えられすぎて、指導する人の目を恐れ、問題を観察するより指導者の機嫌を伺うことに集中する習慣を持ってしまってることが多いように思う。

私はだから、指導者の目の色窺ってたらかえって大混乱させられるという逆の強烈な体験をしてもらうことで「指導者の目なんか気にしないで、自分の観察を信じた方がよい」と思考をシフトさせるように、「構造」を作る。

「え〜?カモノハシって卵産むんやろ?ホンマに哺乳類なん?」と、惑わせるような問いを発する。すると子どもは自分で教科書を調べ、「先生、まただまそうとしたな!卵生むけど哺乳するから哺乳類!」と言い返すようになる。でも私はしつこく「え?ハトでも哺乳するやつおるらしいで?それも哺乳類?」

紛らわしいこと、今ひとつ曖昧になってるところを私は「問い」の形で揺さぶる。子どもはもはや私から答えを聞こうとせず、教科書や参考書をひっくり返して自分なりの確信を得ようとする。こうすると、「また先生に騙されるかも」というところから、情報を捨てられるようになるらしい。

「物分りの悪い子」が「理解力がないから」と診断するのは、解像度が悪すぎる。今回紹介した事例以外にもあるが、私の見るところ、「情報が捨てられない」ことが原因でパニックになる子がかなり多い。こういう子に「よけいな情報を捨てろ」と言ったところで、どれが余計なのか彼らは見抜けない。

だから私は、逆説的に「余計な情報」に囚われたために散々な目にあう、という経験をしてもらう。こうした散々な「失敗」体験は、情報を捨てなければ解けないのだ、と痛感させられることになる。その痛感が、情報を捨てる覚悟を固めさせることができるのだろう。

その子が問題を解けないのはなぜなのか。解像度を上げて原因を突き止め、それがある種の「呪い」に囚われていることが原因であるならば、その呪いを解除するような体験をしてもらうよう「構造」をデザインする必要がある。

子どもや部下の指導は、ただ「教える」だけではない。その人、子の思考を縛り付けている「呪い」の解除が必要なことが多い。その呪いさえ解除すれば、自由な思考を取り戻す人は多い。ぜひ、試行錯誤を重ねて頂きたい。

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