「ネオニコ」考

某農業SNSで、このキーワードが出るとだいたい大荒れする。これは賛成派(容認派)と反対派で、この言葉の受け取り方が全然違うためのように思う。
賛成派は、賛成といっても最近は農薬はできるだけ使いたくないという思いの人ばかり。忸怩たる思いで使っている。
でも、耐性を持った害虫に対応するのに、ネオニコは重要な武器。これを使わなければ、自分たちの生活が成り立たない。生きていけない。簡単に手放せない。使うのは気が引けるけれど、使わざるを得ない。そんな感じ。そうした忸怩たる思いの人たちが「ネオニコ」と聞くと。
自分が責められている気がする。まだ使っているのか、お前は、と言われているようで。そうでなくても忸怩たる思いを持っているので、「ネオニコ」と聞いただけで敏感に反応してしまう。だから否定的ニュアンスでその言葉が語られると、自分も否定されているような気がする。そうしたパワーワード。
他方、農薬否定派の人たちにとって、「ネオニコ」は分かりやすい象徴。使っちゃダメな農薬の代表、くらいにとらえている。だから、ネオニコは農薬の象徴として気軽に言葉にしてしまう。すると、賛成派(容認派)の敏感な傷口に唐辛子とワサビと塩を混ぜてすりこんでしまう。
農水省は「みどりの食料システム戦略」を掲げ、化学農薬の低減を目指している。この結果、農薬否定派は意気軒高、農薬容認派はさらに忸怩たる思いという傷口がズキズキ。そこに「ネオニコ」という言葉を否定的に使うだけで、塩すりこむようなもの。
農薬否定派は、自然界の生き物に優しい人だと思う。ならば、農薬容認派が忸怩たる思いを抱き、農薬使用していることを心の傷にしていることに対しても、優しさを発揮してほしいと思う。意気軒高と農薬バッシングするのは、んー、もうちょっと、考え直してほしいかな、と。
農薬否定派の人たちが気軽に「ネオニコ」と口にすることで、ズキズキ痛む人がいるということに、もう少し配慮が欲しい。配慮するやさしさが欲しい。
似たようなことを、脱原発でも感じることがある。原発事故が起きた時、原発推進派、容認派が猛攻撃にさらされた。私は「原発立地自治体にお住いの人たちとか、傷つかないかな」ということが心配になった。
私は原発にネガティブなイメージを持っている方で、できれば早いうちに原発をなくせたらなあ、と考えている。が、原発に関わって生活している人たちのことも心配。あんな事故が起きて、忸怩たる思いを抱いている人が大半だと思う。でも、生きていくためには関わらなきゃいけない。
原発以外の生活手段を提供できるならいいけど、それをしないで脱原発と声高に訴え、原発にかかわる人たちを悪の権化のように罵るのには、共感できない。脱原発を無事に進めるためにも、原発に関わる人が必要。その人たちの頑張りが必要。そしてやめた時には、生活手段の提供も必要。
脱原発という錦の御旗、正義の名の元なら、どれだけ相手が傷ついても構わない、という攻撃性は、とても悲しい。同じ人間やん。この世に生きる者同士やん。なんでそないな攻撃的なことして、人を悲しませる必要あるのん。そこ、わからんとこ。
人がなるべく悲しまずに済む。そこを大切に考えるから、脱原発の人たちも原発をやめる方向で考えているはず。その大本の目的を忘れて、原発容認派ならいくらでも叩いてよい、という攻撃性、残虐性を発揮するのは、ちょっと思い直してほしい。それだと、容認派だって我慢できなくなる。
ガーゲン「関係からはじまる」で興味深いエピソードが。アメリカを二分する、中絶問題。このテーマになると真っ二つに分かれて、互いに攻撃しあうことになってしまうらしい。けれど。賛成派、反対派それぞれが、なぜその主張をするようになったか、個人的体験を語ってもらうことにした。
すると、中絶に反対せずにいられなかった悲しい出来事、中絶に賛成せざるを得なかったつらい思い出が、それぞれ語られた。その結果、賛成派は反対派がなぜ反対する気持ちになったのか、反対派は、なぜ賛成派が賛成する気持ちになったのかが理解できたという。
人が笑って生きていける社会を。地球の生き物が今後も存続できる環境を。未来に生きる子孫や生物が、今後も笑って生きていけますように。それらの目標を達成するために、誰かが泣いていい、なんて、ちょっと粗暴すぎやせん?やめようよ、そうした乱暴な考え方。
私は「孫子」も読んでるから、いざとなれば超冷酷になる。けれど、そこまでいくまでに、何とか道を探し続けたい。正義の御旗で人の心を逆なですることがないように。むやみに人を悲しませることのないように。みんなで知恵を絞っていける社会になればなあ、と願う。

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