観察し、仮説を立て、接し方を工夫すること

90年代後半から、保護者の親に質的変化が起きた。学校の教師をバカにするという空気。親御さんに大卒が増え、教師よりも偏差値の高い大学・学部を出たと誇る親が目立つように。「私が教えた方がよっぽどうまい」とまで言う親も。私は「うわー、こんな親付き合いたくねえ!」と思った。

私が現役の京大生で、学校の教師ではなく塾の先生だったから油断があったのか、「先生もそう思うでしょ?」と同意を求められたことも。「教師への敬意がないと子どもは伸びませんけどね」と言うと鼻白まれたり。

教師としての優秀さと、学歴(正確には学校歴か)は本当に無関係だと思う。大学の偏差値は関係ない。子どもをよく観察し、仮説を立て、どう接するかを工夫する人かどうかで決まる。教師の知識の量もなんなら関係がない。しかし当時の親はどうしたわけか、教師をバカにする空気が濃厚だった。

いくつか原因が考えられる。そのころから、管理教育に苦しめられた世代が親になり始めた。この世代は、教師にがんじがらめにされたことを恨みに思っている人が多かった。優等生と目され、先生から可愛がられた人でさえも、内心教師を恨みに思い、バカにしていた世代でもあった。

また、急速に大学進学率が上がった世代でもあった。大卒であることを誇り、自分より偏差値が上の大学かどうかで人を評価する癖のある人が増えていた。そうした人たちの一部が、自分よりも偏差値が低いと学校の先生を見下すのを隠そうとしなかった。

ちょうどそのころ、ゆとり教育が本格化しだしたのも影響があっただろう。「円周率は3としか教えない」と言われ、そんなことでは受験戦争を勝ち抜けないと塾産業から脅される宣伝文句が飛び交った。進学塾や私立への期待が高まった半面、公立を小ばかにする空気が濃厚になった。

「モンスターペアレンツ」という言葉が出だしたのもこのころ。ともかく教師に文句をつける。昔なら考えられないことだったが、教師に敬意を払うという空気が取り払われ、むしろ公立教師をバカにする空気が強まったことで、歯止めが失われた感。

宿題が増えだしたのもこのころ。「勝ち組」という言葉が流行り、我が子を有名大学に入学させる「勝ち組」になるために、学校の教師に「もっと宿題を、もっと難しい課題を」求めるようになった。塾はもっと難しいこと教えるのに、学校の授業は簡単すぎてつまらない、と。

教科書に基づかない授業が公立中学で増え始めたのも、こうした背景があったのだろう。教科書通りに授業を進めようとすると「塾ではもっと先に進んでいる、勉強の遅れた子供に合わせるのではなく、トップも取り組みがいがある課題を」と親がやかましく要求、プリント中心の授業が増えた。

学校批判、教師批判が高まり、そうした時代背景も手伝って、校長に権限を集中、言うことを聞かない教師を厳しく取り締まれ、という空気が濃厚になった。自分たちの受けた管理教育への恨みが、教師の管理という形で恨みを晴らすような感があった。

ただ不思議だったのは、親の年齢はバラバラだったのに、90年代後半から急にそうした親が増えだしたこと。あんた管理教育の世代違うやん、という親も教師をバカにしていたり。不思議ではあったが、オピニオンリーダーになる人が、親世代の空気も決めてしまう面があるのかもしれない。

ちょうどこのころ、学級崩壊も同時に問題になり出した。多くは教師の指導力不足で片付けられていた。しかし、背景には、親の教師への侮蔑があったように私は感じていた。親が子どもの前で平気で「お前の担任は偏差値が低い」と言う状況で、子どもが教師に敬意を持てるはずがない。

内田樹「日本辺境論」で面白い落語が紹介されていた。「こんにゃく問答」。働きたくないこんにゃく屋が、廃寺をみつけて偽坊主に成りすましていた。そこに修行僧が現れ、問答で勝負しろ、と挑んできた。偽坊主とばれたら大変、だんまりを決め込むことに。すると修行僧はジェスチャーで何かを伝えた。

こんにゃく屋も負けじとジェスチャー。すると修行僧がジェスチャー。横で見ているこんにゃく屋の友人は何が何だかわからない。やがて修行僧が「参りました!」と土下座し、そそくさと逃げてしまった。何が起きたのかわからない友人は、修行僧を追いかけ、どうしたのか尋ねた。

「あのお方は大変学のある方ですね。私が仏法の疑問をジェスチャーでお伝えしたところ、すべてたちどころに素晴らしいお答え。修行して出直します」
あいつ、意外とやるヤツなんだな、と感心しながら寺に戻ると、こんにゃく屋はカンカンになって怒っている。どうした?と友人が尋ねると。

「あいつ、俺がこんにゃく屋であることを見破って、お前のこんにゃくはこんな小さいんだろ、とか、こんにゃくの値段をまけろとかジェスチャーで言うもんだから、最後にアッカンベーしてやったんだ」とこんにゃく屋は答えた、という話。この話は通常、修行僧が勘違いしたことを笑う話。でも。

内田氏は、修行僧は間違いなく学んだのだ、と解釈する。修行僧はこんにゃく屋を本気で僧侶だと思い込み、敬意を持ったからこそ、自分の問いかけに対する答えをすべて好意的かつ深く解釈し、それによって気づきを得、深く学んだのだ、と。相手への敬意は、深い学びを生む。

自分の方が偏差値が上だ、と誇る人は、その分、学びを減らしている人だと言ってよい。偏差値が低い人から学ぶことは何もない、と考えることで、その人から学べるものも学べなくなってしまう。人間は、バカにしてしまうと、その対象から学ぶことがなくなってしまう生き物らしい。

逆に、どんな人も自分より優れたところがあり、せっかくだから学ばせていただこう、という姿勢のある人は、誰からも学びを得る。そのぶん、成長速度が速くなるといってよいだろう。敬意は観察眼を鋭くし、気づきを増やし、学びを深くする効果がある。

棟方志功は若い頃、自分の芸術論に大変な自信を持ち、どんな芸術家もバカにする傲慢さがあったという。しかし柳宗悦に出会い、江戸時代の百姓が作った民芸品の美しさに衝撃を受けた。芸術論も何も知らない庶民の作った素朴さが、こんなにも美しいなんて。

それから棟方は、どんな人からも教えを請い、その話を面白がるようになったという。どんな人からも学びを得ることができる。それを、江戸時代の庶民が作った民芸品から学んだのだろう。

学びには、敬意が重要。90年代後半の親はどうしたわけか、教師への敬意を欠き、むしろ傲慢にも見下す人が多かった。この時代に教師の社会的地位は低下し、マスコミも便乗して叩くようになり、行政から教師への口出しも増えていき、教師が肩身の狭い思いをする環境が強まっていった。

しかし私は、教師への敬意を取り戻すべきだと思う。もっといえば、人間への敬意を取り戻すべきだと思う。どんな人も、自分より優れた何かがある。そこから学ばせていただくという姿勢が重要。敬意は観察眼を磨き、気づきを増やし、深い理解を呼び覚ます触媒。

もちろん、教師も人間、みながみな、善人ではない。しかし、一を持って多を否定するのはいかがなものか。それはそれ、これはこれ、と峻別する賢さを、皆が持つようにしたい。

子育てで大切なことは学歴、偏差値、学校歴ではないと思う。子どもをよく観察し、仮説を立て、接し方を工夫してみる。そうした試行錯誤を繰り返す姿勢。それをもってくれている教師は、みな良い教師と言える。その姿勢がある親は、みな良い親だと言える。

「観察し、仮説を立て、接し方を工夫してみる」。これは科学の方法論でもある。そう、子育てだけでなく、すべての学びに適用できる姿勢。それをどんな場面でも適用できる人材を育てることができれば、教育は成功なのではないか、と思う。

「観察し、仮説を立て、接し方を工夫してみる」の触媒の一つが、敬意。敬意を抱くと、「なぜこの人はこんなことができるんだろう?」と興味がわくから、観察する。敬意の代わりになる触媒としては、面白がること。なぜこの人はこんな風に考えるんだろう?と興味を持ち、観察眼が鋭くなる。

私はもっともっと、学ぶことを楽しめばよいのに、と思う。学ぶことを楽しめば、人を見下したり傲慢になったりするのがもったいない。くだらなくなる。そんなことで悦に入っている暇があったら、学ぶことを楽しんだ方が良い。だって、傲慢は停滞だから。学ぶことは変化することだから。

※少し追加。敬意を取り戻すのは親からの自発的なものであって、教師から求めるべきではない。大阪の某小学校で、「先生を敬愛する」することを子どもに求めるプリントが配られていた実態がある。これを考えた校長は恥ずべきだと思う。敬意は人に求めるもんじゃない。自分が他者に抱くもの。

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