棟方志功、和氏、ゼンメルワイス、リスターから学ぶ専門家と知ろうとの関係性・・・「事実」に対して謙虚に

父はよく「プロに対して敬意を持て」と言っていた。プロはやはり長くそれに従事してるだけあって、いろんな知見をお持ち。それに対しては謙虚に耳を傾けるべきだと語っていた。
他方、自分がプロとなったとき、素人の方といえども重要な気づきをもたらしてくれるから、耳を傾けるべきでもある。

棟方志功は自分の芸術論に絶対の自信を持ち、他人の意見に耳を貸す人ではなかったという。しかし柳宗悦に会い、民芸品の美しさに驚き、芸術論など何も知らない庶民がこんな美を作り上げるとは!と驚嘆して以降、素人に対しても耳を傾け、新たな知見を得ようとしたという。

素人はプロに対して敬意を示し、プロは素人からでも学ぼうと謙虚になる。要するに、プロであっても素人であっても「学ぼう」とする姿勢が重要なように思う。
私は職業としては農業研究者で、そちらとしてはプロとして扱われる。農家の方からも敬意をもって接せられることが多い。しかし。

農家の方から教えていただくことは数多い。これまでも、農家の方から頂いたアイディアで研究のブレークスルーを可能にしたことが何度かある。何なら、農家でも何でもない、農業なんかしたことない方からもヒントを頂いたことがある。気づきは素人であっても提供できるもの。

それを自分が専門とする分野でたびたび痛感しているので、たとえ自分が素人の分野であっても、気づきを発信することに怯える必要はない、と考えている。けれど、どうしたわけか「あなたは○○の専門なんだからそこに引っこんどれ」という人がしばしば現れる。この意見は、いくつかの点で問題を感じる。

一つは、暗黙の裡に「素人からは何も学ぶことはない」ということを前提にしている点。しかし人間は誰しも全知全能の神ではない。自分がプロとしてやっている専門領域でさえ、極め尽くせていない盲点というのは非常に数多い。自分の未知、不知を自覚できていない点で自分が理解できていない。

その他にも、
・自分がそうして自分の殻に閉じこもるだけならともかく、他者にそれを強要する傲慢さ。
・自分の方がお前よりもすべてにおいて上であるという裏メッセージを放っている点。
・素人からも学ぶ謙虚さを失わせることで、専門領域の発展を阻害する行為。
などなど、問題が山積み。

私は、たとえ素人であっても気づきを発信することに何の問題もないと思う。もしかしたらそれはプロでさえも、専門領域の人たちでも気づいていない気づきの可能性があるのだから。
「和氏の璧」というエピソードがある。これは素晴らしい宝石の原石だ、と思った和氏は、王様に献上した。ところが。

専門家に鑑定させると、ただの石ころだと。「だまそうとしたな」起こった王様は和氏の片足をへし折らせた。諦めきれない和氏は、次の代の王様に献上した。しかしやはり専門家の鑑定では偽物。とうとう両足をへし折られた。和氏は原石を抱いて泣き崩れていた。そこを王子様が通りかかって事情を聴いた。

試しにその原石を磨かせたところ、これまでに見たこともない見事な宝石(玉)であることが分かった。のちに「和氏の璧」と呼ばれることになったこの宝石は、「完璧」の語源を生むなど、数々のエピソードを残すことになる。
ところで、なぜ和氏の原石は専門家から偽物だと鑑定されたのだろう?

恐らく、それまでの専門知識の常識からかけ離れた原石だったためだろう。だから、専門家はこれまでの経験から否定した。また、和氏を素人だと見くびった点にも原因があるかもしれない。専門家が、素人の言うことなど聞く必要はない、と考えた典型的な事例だろう。

しかし、和氏は宝石(玉)の専門家ではないけれど、何か確信を持たずにはいられない「気づき」を持っていたのだろう。これは普通の原石ではない、しかしこれまでにない宝石になるはずだ、と確信する何かがあったのだろう。その「気づき」を聞いて、王子は「ものは試しだ」と考えた可能性がある。

私自身の体験でも、「和氏の璧」の事例を見ても、専門家は素人の方であっても「気づき」には耳を傾けるべきだと考えている。ただし、一つ条件がある。専門家を小ばかにしてはいけないということ。傲慢になってはいけないということ。

人間は「見下された」ということに敏感に反応するようにできているらしい。これを感じると、聞く耳を持ちたくなくなる。これはプロであろうと素人であろうと、人間である限り仕方のないことだと思う。

ゼンメルワイスとリスターという、対照的な人生を歩むことになった医者がいる。ゼンメルワイスは、二つの産婦人科のうち片方での死亡率が非常に高いことに気がつき、何が原因なのだろうと調べた。もしかしたら産褥熱で死んだ女性の解剖をした後の「手」に問題があるのでは、と仮説を立てた。

で、当時、腐ったゴミ集積所でのニオイ消しに効果があることで知られていた次亜塩素酸カルシウムで手を消毒することを徹底してみた。すると、死亡率が非常に高かった産婦人科で死亡率が激減した。「消毒法」の発見だった。しかし、ゼンメルワイスの人生はここから狂っていく。

「われわれ産婦人科医が殺していたのだ」とセンセーショナルな批判をすることで、それを受け入れがたかった産婦人科医たちは、手の消毒をやめてしまった。その様子に腹を立てたゼンメルワイスは「人殺しめ!」とさらに攻撃を強め、さらに拒絶された。誰からも拒否され、孤独になり、精神病院で死んだ。

他方、対照的な人生をリスターは歩むことになる。ゼンメルワイスやナイチンゲールから「不潔がよくないのでは?」という仮説を抱いていたリスターは、死亡率の大変高かった開放骨折を石炭酸で消毒することにより治癒させることに成功する。これで消毒に対する自信を深めた。

しかしリスターが無名の人物であったこと、リスターが「効果がある」といった方法を真似る人がいてもうまく再現できなかったこともあり、専門家たちから批判されまくり、バカにされまくった。もしリスターがゼンメルワイスのような反応をしていたら、彼と似た人生を歩んだかもしれない。

しかしリスターは変に激昂することなく、地道に消毒法を改良することに専念し、少しずつ成功率を上げていった。その結果、リスターの業績は次第に認められ始め、ついにエジンバラ大学の教授となり、死後は国民葬されるなど、尊敬を集めた。

ゼンメルワイスもリスターも、専門家たちからすれば、その道のプロから見れば、素人同然の無名で無学な人間だった。そうした意味では、二人とも「和氏」と同じだったと言える。残念なのは、ゼンメルワイスは自分の発見を信じるあまり、プロを罵ったことにある。

人間は、プロであろうが素人であろうが、罵られたり見下されたりしたら、感情的にならざるを得ない。反発し、拒否せずにはいられない。ゼンメルワイスの攻撃性は、こうした反発を招いてしまった。今日では「ゼンメルワイス反射」と呼ばれる現象として知られている。

他方、リスターはプロや専門家たちの攻撃を受けても、それに対して「愚か者たちめ!」と攻撃的になるような態度は示さず、ひたすら忍耐し、地道に自分の「気づき」を磨き上げ、自分以外の人間にも実践しやすい技術へと磨き上げることに専念した。その結果、リスターは最終的に認められることになった。

もし和氏が、ゼンメルワイスのように、宝石の専門家相手に「知ったかぶりの愚か者たちめ!」と罵っていたら、足をへし折られるだけでは終わらずに、簡単に殺されていたかもしれない。殺されずに済んだのは、リスターのように謙虚だったからかも。それでも古代中国だから両足を折られたけど。

その意味では、和氏とリスターは似ているようで、違いがある。和氏は専門家の権力がある意味及んで、足をへし折られるに至っている。和氏だから最後までくじけずに訴え続けたけれど、こんな目にあったらふつうなら「もうやめとこう」になる。イノベーションは起きず、新しい知見は得られない。

リスターはなるほど、当時の医学界の権威、シンプソンからももう批判され、バカにされたけれど、和氏のようには足をへし折られずに済んだし、技術改良を地道に続けることができた。そのゆとり、余裕が、イギリスで科学を発展させた原動力になったのでは。

これらの事例を見渡すと、次のようにまとめられるように思う。
・素人はプロに対して敬意を。
・プロは専門外の人からも学ぶ謙虚さを。
・プロは素人の言論を封殺してはならない。
・素人はプロを愚弄してはならない。
・プロは素人から学ぶ開かれた心を。
・素人は自分の気づきを育てるしぶとさを。

これらの注意事項を守れば、素人の気づきが専門分野の発展に寄与し、科学や知識を発展させる原動力となるように思う。素人だからといって自らの気づきを発信することをためらう必要はない。しかし気づきがあるからと言って、周りを愚弄する傲慢さはよくない。

専門家は専門外の人の声にも耳を傾け、学ぶ姿勢が大切。でも、愚弄してくる人にまで平然と振る舞う必要はない。
要するに、専門家もそうでない人も、謙虚に、「事実」を学ぼうとする姿勢が必要なのだと思う。

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