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ある先生の最終講義

今日、大谷大学の加来先生の最終講義を聴講した。

加来先生は仏教学・真宗学(親鸞の教えを学ぶ学問)の先生。

心が動かされた。先生は、「僕は全然浅い人間なんだ、だけど僕が触れているものは、限りなく大きくて深い」と言われた。加来先生は、先人を通して自分まで伝わってきた教えが深いんだ。だから、それと向き合えて来れたことは、とても良かったと言っていた。

先生は最後に、「僕は人間の根本問題を考えたかった」「人間の根本問題となら共に死んでいける」と言っていた。これは、つまり先生は何にだったら命を賭けれるかと言ったら、誰かとか、教団ではないということであろう。自分が命懸けで取り組めるのは「人間の根本問題を掘ることだ」つまり「人間とは何かを明らかにすることだ」こう言われた。


「人間にとっての本当の課題は何かという事を知りたくて学んできた」と。これが、宗教者の姿勢だと思った。

僕にとっても分からないのは、自分(人間)にとっての課題は何かという事だ。

人間がどうしてこの世に生まれてきたのか?この世でやらなければならないことは何か?という問題。多分これは一つの答えではないのかもしれないし、宗教的文脈を無視してこういうことを言えば危険だ。(つまりは人生の意味の押し付けになってしまう)

しかし、釈迦や親鸞が求めてきたのはそういう事であろう。人間に生まれたということの厳粛さ。一体なんのために生まれてきたんや。どう生きたら人は本当に満足することができるのか?何を明らかにしなければならないのか?つまり真理(道理)に出会うという事である。

加来先生の言葉に触れて、自分の原点を思い起こされた。

自分も加来先生のように歩めたら…こう思った。

多分そうは成れない。本気度が違いすぎる。しかし、そうなれないなら、そういう人に近づき学ぶべきだと思う。自分は本物になれなくても、本物に親しみ・近づくことが唯一出来る事なのかもしれない。

いずれにせよ、加来先生のような厳しさと優しさを持った先生に教えてもらうことができたことは本当に運が良かったと思う。先生おつかれさまでした。

(終)



[註釈]

メモ:自分にとっての課題が分からないからあっちっへフラフラこっちへフラフラしている。

人間にとっての本当の課題を掘る事。人間の根本問題を突き詰める事こそ自分が宗教を求め、仏教に聞こうと思ったきっかけではなかったか。加来雄之先生の最終講義を聞いて思った。

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