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『世界に一つだけの花』に感じる若干の違和感

SMAPの『世界に一つだけの花』という歌がある。2003年に発売されて、大ヒットした、今も学校の合唱などでよく歌われる曲だ。

この歌に何か違和感があった。とはいえ、基本的にはすごく良い歌だと思うのだ。「世界に一つだけの花、一人一人違う種をもつ、小さい花や大きな花一つとして同じものはないから No.1にならなくてもいい もともと特別なonly one」すごく良いことを言っている。No.1にならなきゃという価値観を切り崩し、もともとonly oneなのだという事を言い、そのままの自己を受容することを後押ししてくれる。これはNo.1にならなきゃと思って、成れなくて苦しんでいる人に違う視野を与えうるだろう。

で、これは自分が仏教特に親鸞の思想を学ばなければこの違和感は感じなかったかもしれないのだが、親鸞の思想に照らした時に、若干の違和感を感じるのだ。

次の文は、浄土真宗の僧侶の佐野さんの文章なのだが、この文章を読んで、「世界に一つだけの花」の中にあるほの暗さの原因が少しわかった気がする。長いが引用する。

「私といっているものは、何とかしてその自分を自分として確固たるものとしたいという、根本的な欲求を持っているのですね。大抵はだから上下で言ったら上に立っていこうとしますしね。あるいは希少価値というもので、抑えようとしたりしますね。宇宙でたった一人なのだと。絶滅危惧種の希少価値と同じですよ。たった一つのなんていうけれど、私は希少価値というもので、おさえるのはあまりいいと思っていないです。希少価値というのはユニークと言うのですね。ユニークではなくてオリジナルであるべきだと。どれだけ同じ葉っぱが生えているように見えても、それぞれはオリジナルでしょう。ユニークになる必要はないのです。命はオリジナルであるという事で満足なのでしょう。ユニークでおさえるのは特殊ですよね。だから今は自分の考えを持たないといけないように思うけれども、私はそんなことはないと思います。親鸞聖人は自分の事をいう時には「竊かに」(ひそかに)というでしょう。時代の違いなのですが。自分の考えなど大したことはないのだ。自分の事をいう時には、「ひょっとしたらわからんが…竊かに」とかね。それはオリジナリティを求めている態度なのです。本当に仏法に面々として流れている法というもの、水が去ると書いて道理をあらわす。(中略)水が去るのは道理だ。要するに流れである。その流れの中に自分を見いだしていきたい。法によるというのはオリジナリティですよね。ユニークである事を求めていない。だから私というものを確固たるものであろうとする時に、何か虚しいという、その事が抑えられるようなものでないといけない。そこに、意義や意味で持っておさえていきたいと思う訳です。だから孤独と、不安と虚しさというものが、私たちなのですね。それに目覚めた、あるいはそれを突きつけられると非常に苦しいのです。そういうものを抱えていきているところに私たちの問題がある。確固たる私になりたい。私は〇〇である。そういう〇〇に確固たるものを入れて、それによって自分を補完している。それを自分として生きる形をとる。これがずっと問題の根底にあるのです。何か優れたものであるという事において自分を生きようとしているのですね。根底に問題があるという事です。」(『なぜ親鸞主義者が戦争を推し進めたのか』pp.69-70)


佐野師は、オンリーワンであることをアイデンティティーとすることは結局確固たる自分を作ろうとする試みであり、そういう事が人間の苦しみの根本になっていると言う。しかし、人間はやはり確固とした自分を立てたいという思いが根底にあるから、それでどうしても苦しむ存在の構造をしていると言われる。

オンリーワンで人間を抑えるという見方はつまりは希少性で価値づけていくという事につながるのだと思う。例えば、今自分は結構漫画を読まれるようになった。それは、「仏教をマンガにする」「お坊さんが漫画を描いている」という希少性に由来するのだと思う。それをあえてやっているのだけれども、でもこれを自分の存在価値・アイデンティティとすれば、必ずそれは崩れていく。苦しみを生む。なぜなら、描けなくなったらその自分の価値は無くなるからだ。そういう事で人間を抑えてはならない。仕事と割り切ってやっていく分には良いだろう。だが仏道を歩もうとするものとして、それを自己を規定するアイデンティティの根本にしてはいけないと思っている。


しかし、佐野師はそれとは違う視座を与える。それはオンリーワンつまり「ユニーク」なことで人間を抑えるのではなくて「オリジナル」なことのほうが大事なのだというのだ。「オリジナル」というのは一人一人がそのようでしかあれないという事ではないか。色々な縁や偶然を背負って生きている。その事自体がオリジナルなのだ。ユニークではなく、オリジナルという点で人間というのは生きているだけで厳粛なものなのだ。


では、世界に一つだけの花のどこに違和感を感じるのか。それは「only one」つまり「ユニーク」であることに価値を見いだせというメッセージがあるからだと思う。この歌で歌われているのはあくまでも「オリジナル」ではなく「ユニーク」だ。ナンバーワンではなくてもいいといいながら「ユニーク」であることは推奨されているのだ。

ただ、浄土真宗の世界観で言えば「ユニーク」である必要もない。結局ユニークであれというのは「ユニーク」であることを立場としているからだ。その立場そのものを手放す。「立場に立たなくていい」という呼びかけが南無阿弥陀仏であろう。呼ばれているという所に、自己を見いだす。如来から悲しまれている所に「それは私であった」という形で自己を知るというのが浄土真宗のいうことだろう。

もっとも「世界で一つだけの花」の中では「もともと特別なオンリーワン」という歌詞があるので、「もともと」、つまり「オリジナル」の意味もちゃんと含まれていると読み解くことができる。しかし、全体としてみた時に頑張って咲いて、オンリーワンになろうというメッセージも感じる。そこが少し怖いのだと思う。


(終わり)

〈追記〉この文章は勢いで書いたのでかなり粗削りで、思い込みも入っているのでこれから手直しし・リライトしていきたい。


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