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スキャンダルとナショナリズム

芸能人の情事をめぐる「スキャンダル」が騒がれるたびに、いつもいささかの違和感がつきまとう。
夫婦関係のどこかに綻びが生じ、仮に配偶者以外の人間と親密な関係になったとしても、基本的にそれはどこまでも個人のプライベートなことがらであろう。

一般論として「不倫」「不貞」が道徳的とは見なされないものの、そこに至る背景は千差万別だ。
その理由が、性依存症のような病的な性癖によるものなのか、夫婦間の何らかの事情に起因するのか、その他の何かなのか、第三者には知る由もない。
大人の当事者間の問題に、なぜ世間が真っ先に審判を加えようとするのだろうか。

本来、芸能を職業にする人は、その芸能の質において批評・批判されればよいはず。
敷衍して言えば、アスリートも競技の成績においてのみ評価され、政治家も政治手腕によって評価されればいいのだ。
私生活で愛人がいようがいまいが、飛行機に乗るなら腕のいいパイロットの便に乗りたいし、手術を受けるなら名医を選ぶ。

いつから私たちは芸能人に清廉潔白な私生活を要求し、アスリートや政治家のプライベートにまで「模範的な家庭像」を不可欠のものとするようになったのだろうか。

1981年から95年まで14年間フランス共和国大統領の地位にあったフランソワ・ミッテランは、近年になってフランスでその評価が高まりつつあるという。
ミッテランの逝去から20年が経った2016年10月、彼の公然たる愛人であったアンヌ・パンジョが『Lettres à Anne』(アンヌへの手紙)を出版した。
内容は、ミッテランが1962年から1995年まで彼女に送った1200通余りの手紙だ。

アンヌはミッテランより30歳年下。アンヌの父親とミッテランは友人同士であり、ミッテランとの交際がはじまったとき、アンヌはまだ19歳だった。
ミッテランが大統領に就任した直後、記者から愛人の存在について質問されて、「Et alors ?」(それがどうしたの?)と返した話はよく知られている。
国家元首として遵守すべき市民道徳はあるとしても、プライベートな領域まで干渉されるべきものではないという、かの国の成熟した公私の峻別を象徴するような逸話だ。

夫婦関係の破綻した芸能人が、Instagramに幸せそうな家族の写真をアップしていたという類の話は、さながらこの国の今という時代をよく物語っている。
むろん「好感度」という名の、そうした私人としてのイメージがコマーシャル起用などの営業面で重要な役割を果たすことは承知しているが、そもそもその前提がどこかおかしいのではないかと私は思う。
芸能人にとって最も重要なことが芸能の力量ではなく、むしろ私生活の理想化されたイメージになりつつあるというのは、消費社会の生み出した不幸な異形なのだ。

人々が著名人のプライベートにまで厳しく干渉するのは、なにも私たちの社会が高い道徳性を持っているからなどではない。
単に、職業人としての領域と私人としての領域、すなわち公私の区別がつけられない未成熟な精神を引きずっているからに他ならない。
それは、番組のなかでの振る舞いと私人としての人格が同一視され、常軌を逸した誹謗中傷が殺到して、タレントの命を絶たせるような狂気の社会である。

そしてそれは裏を返せば、自分自身の内面の領域への外部からの干渉をも、簡単に許容してしまう社会なのだ。

江戸時代の瓦版にも男女の情事をめぐるような内容はあったし、それは明治になっても活版絵草子などに「実録物」として引き継がれた。

だが、「実録物」として語られた内容は事実に程遠かったし、それを受容する人々も事実としてではなく、事実を脚色した読み物として受けとめていたのである。(奥武則『スキャンダルの明治』)

つまり、江戸期から明治20年くらいまでのこうした言説は、ある種の文芸として人々に受容されていた。
これが、いわゆるバッシングの対象としての「スキャンダル報道」というものに変質するのは、1892年(明治25年)に高橋涙香が『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊して以降。
『萬朝報』はスキャンダル報道を売りにして、1895年には東京でのシェアで『東京朝日新聞』を抜いて首位に立つ。今日のマスメディアの先駆け的存在だ。

『萬朝報』が長期連載として力を入れたスキャンダル報道は3つあった。
「相馬家毒殺騒動」「淫祠蓮門教会」「蓄妾の実例」。

「相馬家毒殺騒動」は、精神分裂の患者をめぐる華族・相馬家での騒動をスキャンダルとして扱ったものだった。
「淫祠蓮門教会」は、明治20年代に急速に拡大した新興宗教・蓮門教会に関するものであった。『萬朝報』はこれを「淫祠」と決めつけて猛攻撃した。
そして「蓄妾の実例」は、著名人の誰それが何という名前の〝妾〟を囲っているということを報じたシリーズだった。

注目すべきことは、この時期が大日本帝国憲法の施行(1890年)から日清戦争(1894-1895年)という、本格的な国民国家の形成期、ナショナリズムの醸成期に重なっていることだ。
その時期に、最初期のマスメディアが「精神疾患」「布教拡大する宗教」「アンモラルな家庭」を〝スキャンダラスなもの〟と見なすよう世論を誘導した。

この時期、均質な「国民」を創り出すための新しい制度がさまざまに誕生した。明治期のスキャンダルもそうした〈制度〉の一つとして、新聞というメディアによって語られたものではなかったか。(『スキャンダルの明治』)

つまり、〝スキャンダル〟というのは〝ナショナリズム〟が要求する「国民像」から外れる不都合な者を叩くことで、人々を国家にとって御しやすく利用しやすい「均質な国民」へと調教していく制度として誕生したといっていい。

ある芸能人の不倫が報じられたとき、多くの人が、報じるメディアに対してではなく、報じられた芸能人に非難の感情を抱くのはなぜだろう。
それは、私たちのまなざしのなかにフーコーの言う「万人に属する善」が入り込んでいるからだ。

私たちは、「日本人のあるべき姿」から外れたと見なされた者を、何のためらいもなく糾弾できる。
フランスでは大統領が愛人を持っても許されたとして、日本では許されないのだとすれば、これは普遍的なモラルではなく「日本人のあるべき姿」というものを基準とするナショナリズムだろう。

ここまでくれば、スキャンダル報道といっても、ナショナリズム報道といっても、ほとんど同じことだろう。しいてちがいをあげれば、前者においては、〈日本人のあるべき姿〉に照らして〈異なるもの〉が分節され、摘発されるという形をとり、後者においては、〈日本人のあるべき姿〉に照らして、〈賞揚されるべきもの〉が賞揚されるという形をとる点であろう。その現象面こそちがってはいるが、いずれも〈日本人のあるべき姿〉を徹底的に強調することにおいて、なんら変わりはないといっていい。(玉木明『ゴシップと醜聞』)

他人の私生活にまで介入し、そこに〈異なるもの〉を見つけて糾弾し、職務を自粛させずにはいられない社会。
それは公私の峻別がつけられない未成熟な社会であるだけでなく、国家と個人の関係に無自覚で、国家が求める「均質で従順な国民」であることに自ら参画し、そうでない者を許さない自警団のような社会ではないのか。

「スキャンダル報道」というものが、じつは構造において「ナショナリズム報道」とまったく変わらないということは、もっと理解されなければならない。
「スキャンダル報道」に警戒心のない社会は、いつでも容易に「ナショナリズムの高揚」に取り込まれる社会なのだから。

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