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「カモメと富士山」5

「Wow、オーセンティックなジャパニーズフードだ! ハニーは、料理も上手なんだね」

 アパートで作ってきた海苔巻き、だし巻き卵、肉じゃが、シーフードサラダがダイニングテーブルに並んだのを見て、ジョージが歓声を上げる。

 食事が始まると、ジョージが肉じゃがに入っている糸こんにゃくを箸でつまみ、怪訝そうに尋ねる。
「これ、wormかanimal?」

「え?」
 そういう発想をしたことがなかったので、笑いがこみ上げてきてしまう。寄生虫か何かと勘違いしているのだろう。

 英語で説明しようと思ったが、上手く伝わるか自信がないので日本語になってしまう。
「それは、糸こんにゃく。こんにゃく芋というポテトをパウダーにして、水に溶かして固めたもの。生き物じゃないから安心して」

「何だ、そうなの。初めて見たから……」

 言い訳がましくぶつぶつ言うジョージを見ると、気味悪いものを食べる国民と思われているのかと不愉快になる。
「infestant(寄生虫)と言えば面白かったのに……」

 カズヤが棘のある空気を一新しようと尋ねる。
「富士美さん、富士子さんはどんなグランマだった?」

「お洒落で華のある人でした。みかん畑に出るときも、お化粧をして、髪をきれいに整えるんです。着ていく作業服も明るい色を選んでいました。ご近所でも目立つほど垢抜けていました」

 カズヤが海苔巻きを咀嚼しながら、目尻を下げる。
「富士子さんらしいね。あなたに優しかった?」

「厳しいことのほうが多かったです。祖母はアメリカや英語が好きで、私を子供の頃から英会話に通わせて、英語の勉強を怠ると厳しく叱りました。祖母もそこそこ英語が話せて、私の送り迎えのときに、よくアメリカ人の先生と話していました」

「富士子さんは、津田英学塾の出身だからね。商大予科と津田は、櫟林くぬぎばやしを挟んで数百メートルしか離れていなかったから、私たちはすぐ近くで学生生活を送っていたんだ。ちなみに、佳史くんは、中学のとき病気で1年休学したので、1歳下の富士子さんと同学年だった」

「当時の祖母、どんな女性でしたか?」

「佳史くんと似た色白の肌、大きな目を縁取る長い睫毛に鼻筋がよく通った美しいお嬢さんだった。全身から、育ちの良さがにじみ出ていたね」

「グランパ、そんなに素敵な女性を好きにならなかったの?」
 ジョージがだし巻き玉子を箸でつまみながら尋ねる。

「いや、互いの第一印象は良くなかったんだ。アメリカ留学を望んでいた富士子さんは、私が二世と知り、アメリカの話が聞けると期待していた。だが、松山でアメ公とからかわれ、日本人として受け入れられるために努力してきた私には、アメリカ生まれを蒸し返されて、あれこれ詮索されるのは煩わしかった。目を輝かせて尋ねる彼女に、アメリカの日本人差別の現実を話すわけにいかず、質問攻めに困惑していた。だから、彼女も私に良い印象を持たなかったと思う」

 カズヤにアメリカのことを執拗に尋ねる祖母を想像すると、彼女らしいと笑いが込み上げてくる。
「祖母は、アメリカに留学したかったのですね……。それを知ると、私に子供の頃から英語を勉強させて、留学しろとか外交官になれとか、しつこく言い続けたのがわかる気がします……」

 カズヤは箸を持ったまま、私たちにというよりも、自分に言い聞かせるかのような力強い口調で続ける。
「あの戦争がなければ、富士子さんはアメリカに留学していたはずだよ」

 彼の重々しすぎる口調に、ジョージと私はいぶかし気に顔を見合わせる。

「佳史くんも言っていたが、富士子さんは、自分の人生は自分で切り開く強い女性だ。富士子さんのお父さんは、彼女が女学校を卒業したら、しかるべき家に嫁がせるつもりだった。だが、彼女は、女学校時代に外国文学を読み漁るようになり、欧米の言語や文化を学びたいという意思が出てきた。お父さんは、進学したければ地元の師範学校に行けと言ったが、彼女は東京で勉強したいと言い張り、お父さんと大喧嘩した。そんなに行きたいなら合格してみろと言われた彼女は、猛勉強して津田に受かって、とうとうお父さんを説得してしまったそうだ。
 お父さんは、富士子さんが津田を卒業したら地元で教師をさせたいので、学生時代から熱心に見合いを勧めていた。でも、彼女はまったく興味を示さず、卒業後はアメリカに留学したいと言い張った。あの戦争が彼女の運命を変えてしまったんだ」

 日本語になってしまうが、思い当たることを伝えてみる。
「祖母は肝が据わった人でした。お兄さん2人が戦死してしまい、自分が婿をとってみかん農家を継ぐしかないと、覚悟を決めてやってきたと思います。でも、心の隅に割り切れないものを抱えていたのかもしれません。

 1つだけ、思い当たることがあるんです。

 祖母は短歌を詠むのが趣味で、ノートを傍らに置き、浮かんだ歌を書き連ねていました。私が小学校6年生の頃でした。祖母に一番好きな歌を尋ねると、若山牧水のこの歌だと言いました。

白鳥《しらとり》は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まらずただよふ

 読むだけで状況が浮かぶような色彩感があって、周囲と同じ色に染まれない牧水の孤独が伝わってくる歌でした。年をとっても装うことが好きで、日々の化粧も欠かさない祖母は、与謝野晶子が詠むような華やかな歌を選ぶと思ったので意外でした。でも、そこには、いろいろなことを諦めて、みかん農家を継いだ祖母の周囲に染まり切れない孤独と悲しみがあったのかもしれません」

 それを聞くと、カズヤの乾いた唇が小さく震えだし、細い目が赤らんでいく。
「失礼、喉が渇いた……」

 彼は私たちにさっと背を向け、リビングに行ってしまう。私とジョージは彼の反応に、解せない視線を交わす。

             
                   ★              
 カズヤが席を外して間もなく、玄関から「ハーイ!」と鼻にかかる声が響く。

「Hey, アリシア! 待ってたよ」

 あのときのイラン系女性が、ジョージに伴われ、濃い紫色のブラウスに同系色のロングスカート姿でダイニングに入ってくる。

「遅くなってごめんなさい。チェロウ・モルグとサラダを持ってきたの」

「いつも、ありがとう! 大好物だよ」

「やあ、アリシア。よく来てくれたね。待ちかねていたよ」
 戻ってきたカズヤも相好を崩して彼女を迎える。

 彼女の強烈な存在感が、居心地の良かった空気をがらりと変えてしまう。

「アリシア、例のヘイトスピーチ訴訟は上手く進んでいるかい」

「まずまずよ。向こうの弁護士は手強いわ。逆に名誉棄損で訴えられそうだから、ここらが潮時かも。カズの訴訟は?」

「私のほうも、この辺りでやめておくよ。これ以上やると依頼人の負担が大きすぎて、誰も幸せにならない」

 アリシアは小さく息をつき、持ってきた料理をタッパーから皿に移しながらぼやく。
「アメリカ人の大半には、イスラム教徒もシーク教徒も、中東系も、南アジア系も同じにしか見えないのよ。要は、見た目がイスラムを思わせたら憎悪犯罪ヘイトクライムのターゲットになる」

「アジア系だって同じさ。日系も中国系も韓国系も、黄色い肌はみな同じ。だから、日米貿易摩擦のときに、日本人と間違えられた中国系の青年が殺された」

「ああ、ヴィンセント・チン事件は、ひどかったわね。まだ、ヘイトクライム規制法もなかった頃だし」

「全くだよ」

 置いてきぼりにされている私を気遣い、ジョージが割って入る。
「アリシア、俺のダーリンに君の料理の説明をしてくれないか?」

 彼女はジョージに濃厚な視線を注いで頷き、私に軽く視線を投げる。
「そうだったわね。イラン料理は食べたことある?」

「いえ」

「そう。このサラダはシーラーズィというの。きゅうりとトマト、オニオンをダイスカットして、レモン汁とブドウ汁をかけて、ハーブを加えてあるわ。今日使ったハーブはペパーミント。こちらはチェロウ・モルグ。チキンをトマトとターメリックで煮込んであるの。お口に合うといいけど」

 アリシアは艶然と微笑む。子供に説明するような口調に腸が煮えくり返るが、この女にかみついても自分が優位に立てるものは何もない。

「美味しそうですね」

 ジョージが私を守るように肩を抱いて促す。
「ダーリン、食べてごらん。アリシアも、富士美のジャパニーズフードを食べてみて。俺のガールフレンドの料理はとびっきり美味しいんだ」

「まあ、あなたは可愛いだけじゃなくて、料理もできるのね。ちなみに、これはビーフよね?」

 アリシアが肉じゃがに入った牛肉を指さして尋ねる。
「はい」

「それなら問題ないわ。このお料理に醤油ソイソースは使っていない? 私、イスラム教徒だから豚肉や発酵食品は食べられないの」

「あ、すみません。この肉じゃがとだし巻き玉子に使っています。海苔巻きは醤油をつけなければ大丈夫だと思います」

「そう。じゃ、醤油をつけずにいただくわ」

 箸を器用に使い、海鮮巻きをぱくりと口に入れるアリシアを横目に、私も彼女の料理をいただく。トマト煮込みのチキンは日本人の口に合う味付けだ。サラダはノンオイルで、酸味とミントが効いているので、脂っこい料理の付け合わせにぴったりだ。彼女は料理も上手で、非の打ち所がない。

「ライスがスティッキーで美味しいわ。今度は、私の食べられるものをもっと作ってね」

 濃いルージュを塗った分厚い唇が禍々しく映り、食欲を減退させる。そもそも、あなたが来るなんて聞いていなかったと言ってやりたい気持ちを飲み込む。

「サラダもチキンも美味しいです。レシピを教えて下さい」

 口角を無理に押し上げで笑みを作りながら、自分がバカな女に成り下がってしまう屈辱を噛みしめる。

 アリシアはふっと笑みを見せ、スパークリングウォーターのグラスを傾けながらつぶやく。
「これ以上、イスラムが絡むテロが起こってほしくないわ。今度は何が起こるかと思うと、安心して生活できないわよ」

 カズヤが同意するように頷く。
「アジアも穏やかであってほしいね」

 アリシアは解せない顔をする私に視線を移し、子供を諭すように話し出す。
「アメリカは、様々な国から来た人々で成り立っている国なのはわかるわね? 日本みたいに同質性が高い人ばかりの国ではないの。だから、ある国や地域とアメリカの関係が悪化したら、その怒りは、国内にいるその国や地域をルーツにする人々に向けられる」

「理不尽ですよね。アメリカに移民した人たちが、出身国の政治外交に直接関与するわけではないのに」

 彼女は私がまともな答えを返したのが意外だと言いたげな眼差しを注ぐ。
「その通りよ。でも、周囲は、出身国を離れてアメリカに住んでいる人と、本国にいる人の違いなど考えない。その国のスパイや協力者だと思われて、怒りのはけ口にされる。ヘイトスピーチ、脅迫、暴行、放火、財産や施設の破壊、殺人というような憎悪犯罪ヘイトクライムの対象にされる」

 カズヤとジョージも同調するように頷き、線を引かれたような疎外感を引き起こす。

「あなたも日本人ならわかるでしょ。第2次世界大戦時に何があったか」

「あ、少し聞いたことはありますが……」

 ジョージが私に助け船を出すように口を挟む。
「アリシア、せっかくのランチだ」

「そうね。日系の話はやめておく」
 アリシアはスパークリングウォーターを1口飲んだ後、優雅に脚を組み直して私に尋ねる。

「ねえ、あなたのイスラムのイメージって、どんなの? アラジン? テロリスト?」

「え……?」

 彼女は図星だったことを見透かすように冷めた声で続ける。
「いいのよ、メディアが作ったイメージは、そんなものでしょう。私たち、イスラム教徒のアラブ系は、中東諸国とアメリカの関係が悪くなったり、イスラム過激派のテロが起こるとヘイトクライムのターゲットにされるの」

 ジョージが私を気遣い、話を整理するように尋ねる。
「アリシア、イスラム教徒や中東出身者へのヘイトクライムが始まったのはいつ頃?」

「1973年の第4次中東戦争が最初かしら。あのとき、石油危機オイルショックがあったでしょう。あなた、石油危機ってわかる?」

「ええ、国際政治専攻ですから。第1次石油危機は1973年から77年。中東の産油国が原油の供給を減らして価格をつり上げ、イスラエルに味方する国に石油禁輸を含む厳しい経済制裁を課した。それが原因で、原油の価格が跳ね上がりました」

 私が英語で淀みなく答えたことに、アリシアはふんと小さく鼻を鳴らす。
「アメリカでは、原油価格が高騰した怒りが国内のアラブ系やイスラム教徒に見える人々に向けられたの。私の家族は、イスラム教徒の多いミシガン州のディアボーンに住んでいたから、両親は向けられる憎悪ヘイトや偏見を肌で感じていた。彼らが価格を釣り上げたわけじゃないのに。それが、イランで親米派のパフレヴィ―朝が倒れた1979年のイラン革命のときにも強まった」

 カズヤが思いついたように口を挟む。
「イラン革命の後、テヘランのアメリカ大使館が占拠されて、アメリカ人が人質になった事件の後もひどかったんじゃないか?」

「カズの言う通りよ。私たちイラン系がヘイトのターゲットだったけど、出身国や宗教など関係なく、イスラム教徒や中東出身者に見える人にヘイトが向けられた」

「1980年代もいろいろあったんじゃないか? 私も日米貿易摩擦で日系へのヘイトがあって、その対策に奔走していた。私は日米の会社を取り持つ企業弁護士だったからね」

「そうね。まず、1985年6月のトランスワールド航空847便テロ事件。ヒズボラとイスラム聖戦を名乗るテロリストが起こしたハイジャック。乗客のアメリカ海軍2等水兵が射殺されたから、アメリカ世論の怒りは国内のイスラム教徒や中東出身者に向き、たくさんの暴力犯罪が起こった。
 10月にはアキレ・ラウラ号事件。パレスチナ解放戦線が、パレスチナ問題解決とパレスチナ人死刑囚の釈放を求めて旅客船を乗っ取った事件。乗客のユダヤ系アメリカ人男性が銃で撃たれ、海に突き落とされて殺された」

「その後、カリフォルニアで痛ましいヘイトクライムが起こったね。アラブ系の権利擁護団体の南カリフォルニア事務所のトップが、仕掛けられた爆弾で殺された。
 最もひどかったのが、イラクがクウェートに侵攻した1991年の湾岸戦争のときじゃないかい? 全米にイスラムや中東出身者への憎悪の嵐が吹き荒れた。カリフォルニア州でも、ここロサンゼルスで、レバノン系アメリカ人とイラン系ユダヤ教徒の商業施設に火がつけられた」

「あのときは、初めて大統領が、イスラム教徒や中東系に対するヘイトクライムを即刻やめるよう警告するほどひどかったわね」

「湾岸戦争をきっかけに、アメリカ軍がサウジアラビアに駐留するようになったから、イスラム原理主義者のアメリカへの反発を招いた。1993年には、イスラム原理主義テロ組織アルカイーダとイスラム集団による世界貿易センター爆破事件があった。地下駐車場に設置された爆弾により6人が命を落とした」

「俺は、オクラホマシティ連邦政府ビルの事件を覚えてる。確か1996年4月。外国のテロリストは関わっていないと当局が発表するまでは、イスラム過激派の犯行だと言われて、イスラム教徒や中東系への嫌がらせ、暴行、物的損害があった。結局、犯人は白人だったけど」

「あの事件の直後、連邦政府ビル周辺にいた中東系アメリカ人を含む中東系が数十人、一時拘束されているのよ」

「ひどい偏見ですね……」
 警察も犯人を捕まえるために、犯人と人種的・宗教的属性が同じ人々を集中的に捜査する必要があるのは理解できる。だが、自分が国籍や身体的特徴を理由に拘束されると思うと、恐怖と憤りが湧いてくる。当たり前のように、日本人として生きてきた私も、ここでは外国人という弱い立場だと認識させられる。

 アリシアの眉間に浮かぶしわを見つめながら、これ以上、イスラム過激派によるテロが起こらないことを願う。


 ジョージは私のアパートに車を走らせながら甘い声で囁く。
「今日はハニーの意外なところをたくさん見た。君は綺麗で、スマートな上に家庭的でもある。今まで出会った日本人女性のなかで一番魅力的だ」

「本当に?」
 ジョージは、今まで交際した男性とは比較にならないほどストレートに思いを言葉にしてくれる。言葉は蜜のように胸にしみわたり、全身に自信を漲らせていく。彼が傍にいてくれるだけで、どんどん自分が高められる。

「ああ。まだ、出会って1か月だけど、運命の女性だと確信してる」

「私も……」

「俺、卒業したら日本に行くよ。そうしたら、一緒に居られるだろ。英語講師になればビザも出るし、日本で翻訳の勉強も続けられる」

 ボンネットに映る金色の月を見つめながら、いま世界が終わりを迎えても構わないほどの幸せを噛みしめる。