見出し画像

巡礼 7-(2)

 胃癌の手術をして1ヶ月という84歳の鈴木勝喜(かつよし)は、一人暮らしのアパートで「めんそーれ」と琉球方言で都を迎えた。都はその老人を形容する言葉が見つからなかった。良く言えば年相応の老人、悪く言えば存在感に乏しく消え入りそうな人だった。それが、表情の乏しさからくるのか、全身から漂う厭世観からくるのかはわからない。どんなふうに生きてきたらこうなるのかと思わずにはいられなかった。


 ただでさえ侘しい木造アパートの一室には、彼が放つ澱んだ空気が満ちていた。テーブルを挟み、彼と向かい合って座った都は、着いて1分もしないうちに、結城に同行してもらわなかったことを後悔した。都の目を見ず、口の中でぼそぼそと話す彼は、容易に人を寄せ付けないところがあった。彼の目頭に溜まった目脂と、ひび割れた口角にこびり付いた唾液の泡が不潔で、都は思わず目を逸した。
 老人は手帳とICレコーダーの準備をする都を上目遣いで伺っていた。都がそんな彼をちらりと見たとき、視線がぶつかってしまい、気まずさで思わず目を伏せた。
 彼はふんと鼻を鳴らして立ち上がり、冷蔵庫から作り置きのお茶の入ったガラス瓶を出し、薄茶色の透き通ったグラスに注いだ。都は自分の前に無造作に押し出されたグラスをとり、そっと口をつけた。彼の注いでくれたゴーヤー茶は苦味がなく、気持ちよく喉を潤してくれた。グラスと茶の色のコントラストが計算されたように美しかった。都は会話の緒(いとぐち)をつかもうと、グラスの美しさをほめたが、「琉球ガラスです」とそっけなく返され、こんな調子で、話しを聞くことができるのかと心が折れそうになった。
都はICレコーダーでインタビューを記録してもよいかとおずおずと尋ねた。彼は一瞬渋ったが、まあいいと承諾し、都と目を合わせずに尋ねた。
「あんた、日本にいる二世のことを調べてるんだって。アメリカにも行くの?」
 都はぞんざいな口調にむっとしたが、それを飲み込んで答えた。
「はい、私の先生がMISに関わった二世にインタビューをしているので、その助手として渡米してインタビューに立ち会っています。国立公文書館や議会図書館で資料収集もしています」
「英語は話せるの?」
「込み入った会話は苦手ですが、日常生活に必要な会話はできます」
 軽蔑をにじませてふんと鼻を鳴らした彼は、目を瞬(しばたた)かせながら、やや上擦った口調で言った。
「本田、じゃなくて井沢からあんたのことを聞いたとき、ずいぶん考えた。長いこと考えて話すことに決めた。死んだ彼女も賛成してくれるだろう」
 彼は仏壇に置かれた写真を振り返った。彼の妻らしき上品な老婦人は、こぢんまりとした部屋を優しく見守っているようだった。
 彼は都の目ではなく、襟元辺りを見ながら「最近、あまり人と話さないから、うまく話せるかわからないが……」とぼそぼそと前置きしてから話し出した。

「私の本当の名前は原田 彰(あきら)。本当の歳は83。原田は1945年5月に戦死したことになっていて、本当の鈴木さんも同じ年に死んでいる。こういう事情があるから、書くときは、絶対に名前がわからないようにすると約束してほしい」
 都は初端から突拍子のない発言が飛び出して面食らったが、彼の有無を言わせない口調に圧されて頷いた。都は手帳に「ハラダ アキラ 83歳」とメモし、インタビュー中は本名で呼びかけることにした。
 彼の日本語は語彙も豊富でよどみないが、所々に英語アクセントの名残が伺えた。日米を行き来した事情により、日本語も英語も中途半端な二世がいることは結城から聞いていた。都がインタビューした二世にもその傾向がある人がいたので全く気にならなかった。
「変なことを言うジジイだと思うだろ。でも、まだぼけてない」
 彼の口角がわずかに上がった。都は陰鬱な顔に浮かんだ笑みらしきものに、ぞくっとしたが、顔に出さずに質問を始めた。


「では、最初に御両親のことと、子供の頃のことを聞かせていただけますか」
「1918年、カリフォルニアのチュラビスタ生まれ。両親は農業をしていた。母シノは私が2歳の頃、ハードな労働で体を悪くして死んだ。父の慶次郎(けいじろう)は私が3歳のとき、交通事故で死んだらしい。白人に騙されて金を巻き上げられ、気が変になっていたという話も聞いた。本当のことは知らない。
 私は父の従兄弟の原田橋之助夫妻に引き取られた。本当の父と養父は、一緒にアメリカに渡ったらしい。最初に橋之助が、小学校の同級生だったユキを妻としてアメリカに呼び寄せた。その2年後、橋之助の勧めで慶次郎がユキの妹シノを妻として呼び寄せたらしい。2組の夫婦はチュラビスタで一緒にセロリやトマトを栽培し、家族ぐるみの付き合いをしていたという。私が引き取られた橋之助夫妻の家には、私の他に3人子供がいた。みな顔が似ていたので、自分がこの家の子じゃないと考えたことはなかった。まあ、当然だな。実父と養父は従兄弟で、実母と養母は姉妹なんだから」
 そこまで話した彰は、喉を鳴らしてグラスのゴーヤー茶を飲み干した。彼がお茶の瓶を取りにいくために立とうとしたので、都が代わりに行こうとしたが、余計なことをするなと言いたげな目で制された。
「私は原田家の次男だった。3歳上の光明(ミツアキ)、ミツとは仲良しだった。ミツは勉強もスポーツも何でもよくできた。背が高くていい男だった。女の子にも人気があった。私は外見も頭もいまいちで、ミツと比べるとぱっとしなかった。運動神経だけはよかったから、柔道や剣道はミツと張り合えた。
 両親はできのいいミツをかわいがった。悔しかったけど、彼は何でもできるので仕方がないと思った。長男は優遇されるって言うし。それでも、両親に褒められたくて勉強も、畑の手伝いも一生懸命やった。日本語学校に通うようになってからは、それも頑張った。だけど、どんなに頑張ってもミツにかなわなくて、いつも嫉妬していた。年の離れた弟と妹も、いつも不満げな顔をしている私に近づきがたいものを感じたらしく、明るくて優しいミツを慕っていた。

 私が12のときだった。ふてくされている私を見かねたのか、当時の事情を知る隣人が、私が本当の子供ではないことと、引き取られた経緯を教えてくれた。しばらく口が聞けないほどのショックだった。家に帰るのが怖く、帰っても両親の顔が見られなかった。
 真実を知ると、いろいろなことに説明がついた。私は親からあからさまに差別されていたわけではないが、明らかに他の兄弟と差をつけられていた。両親は洋服でも文房具でも、ミツによいものを与えた。ミツは長男だからだと思ったが、両親は弟や妹にも自分よりいいものを与えていた。家族で街に出るときも、一人だけ留守番をさせられることが多かった。サンディエゴのダウンタウンの5番通りとアイランド通りが交差する辺りに、日系の店が集まっていて、両親はそこで買い物をするのを楽しみにしていた。私も街へ行けるのを楽しみにしていたから面白くなかった。今までは、私のできが悪いから除け者にされるのだと思ったけれど、そうじゃなかった。
 どこかに逃げたかったけれど、12の子供が行けるとこなんてどこにもない。家のなかでは以前にも増して孤独を感じて、心が安らぐことはなくなった。近所の日本人も、私がもらわれっ子だと知っていると思うと、彼らの視線も怖かった。もともと、あまりしゃべらなかった私は、ますますしゃべらない子になった。誰にも心を開けず、自分の殻に籠っていった。一家の生活は苦しかったので、養父母に捨てられないかと不安で、いい子でいなければと勉強も運動も頑張り、率先して畑を手伝った。

 だが、そうすればするほど、ミツとの能力の違いを思い知らされた。ミツは何でもすぐにできてしまう。私は努力に努力を重ねて、やっと彼のレベルに到達する。だけど、そのときには、彼は遥か先を行っている……。
 ミツは畑の草むしりも水やりも、私より早く、しかも丁寧にやっていた。養母は手がのろい私をどやしつけ、邪魔だからミツに替われと怒鳴った。悔しくて、ミツなんかいなくなっちまえと何度も思ったよ。ミツは剣道も柔道も強くて、地区大会で優秀な成績をとっていた。彼が褒められているのを見るたびに、嫉妬が湧いた。近所の一世もこぞってミツを褒めた。どんなに努力してもミツにかなわないと何度も思い知らされ、私の妬みはますます強くなった……」
 

 彼は暫し口をつぐんだ。都は彼の手がかすかに震えていることに気づいた。彼はグラスが空になっていることに気づき、冷蔵庫にお茶の瓶を取りにいこうとしたので、今度は都が取ってきてグラスに注いだ。喉を鳴らして茶を飲み干した彰は、都を上目遣いに見ながら言った。

「少し脱線すると思う。話しているうちに、いろいろ思い出すから……」
 アイデンティティの変遷について聞きたい都は、兄への嫉妬を執拗に語る彼に戸惑い、どうすれば失礼にならないように軌道修正できるかと頭を巡らせていた。だが、その気持ちを飲み込み、構いませんよと明るく答えた。兄への複雑な思いが、彼の口を滑らかにするなら、とことん付き合うしかない。

「自分が本当の子ではないと知ってしばらくした頃、ミツは日本で教育を受けるために広島に送られた。彼が15のときだった。子供を日本に留学させるのは養父母の夢で、こつこつと貯金していたらしい。今思うと、恐慌で家計が苦しかったのに、よく高い船賃が出せたと思うよ。
 子供の頃、家には日本のレコードとか本があった。見渡す限り畑が広がり、遊ぶ場所なんかないところだったから、養父母には日本の歌や日本語の本が慰めだった。彼らは子供たちに日本の歌を聴かせ、どんなに素晴らしい国かを話してくれた。今のようにテレビがない時代だから、私の日本への憧れは募った。自然が美しく、人情に熱い日本を想像し、ずっと行ってみたいと思っていた。サンフランシスコの港でミツに手を振りながら、いいなと思ったよ。

 当時のカリフォルニア州は人種差別がひどくて、日系人は白人から冷たい目を向けられていた。私も小学校の頃から、白人の子にジャップと侮蔑されてきたから、アメリカを出られるミツがうらやましくてたまらなかった。
あの頃、二世はアメリカの大学を優秀な成績で卒業しても、それに見合う仕事を探すのは難しかった。医者とか弁護士の資格をとっても、それが通用するのは日系人社会のなかで、白人社会に食い込めるのはほんのひと握りだった。だから、ほとんどの二世は、大学を卒業しても農業とか店舗とかの家業を手伝うか、ブルーカラーの仕事に就くしかなかった。日系人社会で仕事をしたり、日本の会社のアメリカ支社に雇ってもらうには、日本語ができなければならなかった。だから、両親は日本語をしっかり身につけてほしいと、長男のミツを日本に送ったんだ。

 ミツがいなくなってみると、目の上のこぶが取れたような解放感があった。私は率先して畑仕事を手伝い、弟や妹の面倒をよく見た。大学には行かせてもらえなかったから、高校を卒業すると朝から晩まで畑を手伝うようになった。収穫した野菜をトラックに積み、養父と一緒に市場に出て、高く買ってもらえるように交渉した。英語が苦手な養父が参入できなかった市場にも食い込めて、一家の懐はうるおい、養父母は私を頼りにするようになった。このとき、はじめて家に居場所を得たような気がした」