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世界はいろいろでつながっている

あることに興味を持つと、そちらに注意がむいているから
意識無意識に関連するものを探しているから、当然それに関連するものに出合う確率が高くなる。
必然とはいえ、偶然のような顔してひょいとその事象場所に出会うとうれしくなってしまうのが人情。

こないだから書いているように、赤羽末吉さんの「私の絵本ろん」を読んでいる。

「スーホの白い馬」は時代がちがうのか、地域によって違うのか
わたしが小学生のころ、わたしが育った地方都市の教科書には載っていなかったけれど
こどもたちが育った京都市の小学校の国語の教科書には載っていた。

そんなことを思い出しながら、大阪、十三のモンゴル/中国料理店、「美味小籠包」にむかった。

前日、スタンダップコメディアンのナオユキさんがFBで羊肉麺を「めっさおいしー!」とあげていたのだ。
羊肉麺て、そうそうない。

夫がロシア人だもんで、京大に留学していた旧ソ連の国々のひとたちと親しくしていた時期があり
そのなかでも、とくに仲良かったカザフスタン人の夫婦が二組あり
カザフスタンではよく使われる羊肉や馬肉ソーセージを使った料理をふるまってくれたものだった。

日本人はクセの強い料理が苦手なひとが多いみたいだけれど、なぜかわたしは大好きで
羊肉と手打ち麺の煮込み「ベシュバルマック」

(↑このページの01)
やモンゴル風うどんの「ラグマン」

や、西洋炊込みご飯「プロフ」

ああ、なつかしい。

プロフは鶏肉でも代用できるので、割と作ってるけど、やはり羊肉のクセがいい。
毎年夏に川でする、ロシア人大好き「シャシュリーク」

も、なければ豚肉でするけど、我が家ではできるだけマトンを用意します。
ラムではなく、マトン。
「ラムは子羊でクセがなさすぎるから」
とは夫の言。

さて、「美味小籠包」に話は戻って。
ナオユキさんの投稿と写真から、ラグマンを思い出し、思い立ったが吉日のわたしは翌日お昼に十三へむかったわけ。

十三は、やくざの彼と逢引してたときの待ち合わせ場所で、なつかしく、せつない。
最初は時間通りにやってきていた彼が、いろいろあって遅れてきたり、来なんだりしたときがあり
時間つぶしのためにトミー商店街をせっせと何往復もしたものだった。
だから、トミー商店街はお手のもの。
目当ての店も、すぐ見つかった。

モンゴル人のお兄さんが一人で切り盛りしており、
ナオユキさんの投稿でここにやってきた話、京都から来たことを言うと
「わざわざ来てくれたから、サービスね」
とザーサイの小皿を置いてくれた。

おいしい。
実は、これをふくめて2回しかザーサイをおいしいと思ったことがない。
ほかは、「なんでこんなゴミを食わすんだ」と思っていたが、おいしいザーサイはおいしいのだと知った。

お兄さんは注文を受けてからコトコトと包丁を動かし、せっせと作ってくれている。

店にはいってすぐに目にとびこんだのが、
「スーホの白い馬」の絵本と、並べて置かれた
「「スーホの白い馬」の真実」

開いてみると、著者らしきひとのサインがある。
モンゴル人つながりということで、著者から進呈されたものだろうか。
そこらへんは、はじめての客なのでずうずうしくきけない…といつもの人見知りが発動してしまった。

ぱらぱら見てみると、
「モンゴル人は馬を大事にしているのに、射殺するというのはあり得るのか」
という疑問をモンゴル人の文化に詳しい日本人から投げかけられ、
モンゴル人の研究者がそれに端を発して「スーホの白い馬」の考察にはじまり
それをからめてモンゴル事情を解き明かす、たいへん広大で深い本のようで
近いうちに買おう、と心に決めた。

それにしても、ふいと本屋に寄って気になって買った赤羽さんの本が、こんなところにもつながっている。とうれしくなった。

羊肉麺は、ラグマンを勝手に想像していたのでちょっと違うなあと思ってしまったけれど、あっさりしているのに深みのある汁はおいしくて、お兄さんが頑張って作ってくれたのでせめて麺は残すまい、と思って食べてたらお腹いっぱいになって全部飲み干せなかったのが心残り。
テイクアウトの小籠包を頼んだら、その場で蒸してくれた。
持って帰った小籠包は、その夜やってきた娘と孫に食べられてしまった。
孫はまだ4歳なのに、ほぼひとりで食べてしまい、「もっと」というので、次回、その子のぶんと、その子のお母さんと、お父さんの分を買ってくる約束をした。

さてさいきん、ひょんなことから深沢七郎を知って、すっかりハマってしまっている。

立て続けに深沢本を、京都市図書館から借りだしては読んでいる。
どれも面白い。
飽くことなく読み進められて力強い。
消し去っているのに、深みがある。

なぜか「深沢七郎」を「深沢新七」と覚えてしまい、
「まあ、<深七>の愛称でもあるさ」
と勝手に「しんしっつぁん」と呼ぶことに決めて
すっかりしんしっつぁんにぞっこん、夜も昼も彼の作品を思い出しては
にやにやあれこれ考えているわけだけれど

先週末は土日で、豊岡にいってきた。

兵庫県豊岡市の出石にある昔ながらの芝居小屋、永楽館

で毎年11月あたりにある片岡愛之助主宰の興行を観に行くことにしているのだけれど、今年は例のコロナ禍で、中止。
でもせめて、いつも前夜か後夜祭でいっている、豊岡の名店での宴会はしましょうと有志で行ってきた。

仲間とは現地で集合、ひとりJRで城崎まで行き、
お昼は城崎で食べ、外湯にはいりまくって豊岡でカバンその他買い回り
仲間と集合して夜宴会だったわけだけれど

今回はいつになく、土曜も日曜も山すそのほうにけぶたい霧がかかっていて
くすんだ緑、輝くような黄色、深みのある紅、さまざまに色づく木々に彩られた山に雲なのか霧なのか靄なのかがじっとしと停滞する様子は神秘的で
「やっぱり山には神さんがいるんだなあ。
現代でさえそう感じるのだから、むかしのひとはもっと強く、深く感じたにちがいない」

とまた、「楢山節考」に思いをはせるのだった。

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