私小説考

尾辻克彦の小説集、「出口」を読み終えて図書館に返してきた。

いきさつは「はてな」の日記に書いている。

とても面白いし、表現も比喩もさすが、なのだが
「これって、小説じゃなくてエッセイじゃね?」
と思ってしまった。

いやフィクションも組み込まれてはいるのだけれど
どうも、「身辺雑記」的な色合いが濃い。
いや、身辺雑記的に書きながら、とあるテーマの周りをまわって訴える作品もあるのだけれど。
「恐縮」は身辺雑記ではない小説でおもしろく、やっぱり自分はSF好きだなあと思い知らされた。

どうやらこの人は生活、芸術、ありかたについて
「肩の力を抜いて、リラックスしていこうよ」
という姿勢をもっており、エッセイ的「小説」もそこからくるのだろうけれど
自分的には、もうちょっとキリリとしたものが欲しかったのかなあ。

その点、深沢新七の「極楽まくらおとし図」にはやられた。
じいさんのぶわぶわした身辺記かと思って読んでいたら最後に
「申し訳ございませんでした!」
と言って、正座したくなった。

それから、姿勢を正してオンライン予約した「楢山節考」を図書館から大事にかかえて帰ってきたのが数日前、とりあえずは表題のこの作品だけを読んだけれど、やはりおもしろい。
「小説とは、こういうものをいうのではないか」
と思うのだ。

ただ、尾辻克彦の作品も勉強にはなった。
力みがなく、たくみな表現も多く感心したし、話の切り方、回し方も参考になる。
「こういう書き方も許されるのか」と思うことも。

当然といえば当然なのだが、いまごろ気づいた。
「うまい文章を書くには」
という指南本を読むのでなく、さまざまな優れた作家の作品を数多読むほうがよほど修練になることを。

だから、さいきんアンソロジーにはまっている。
じぶんが知らなかったり、とくに興味をもっていなかった作品もついきて
思いがけない発見ができるから。

私小説について、ずっと考え込んでいる。
梅原猛先生が、「私小説は、くだらない」とおっしゃってるのをどこかで読んで、がっかりしたものだった。

あれこれ試してみて、じぶんは書くとしたら私小説しか書けないなと考えていて、
そのじぶんのありようを否定されたような気がしたからだ。
いらい、なんだかずうっとコンプレックスを感じながら生きてきているわけだけれど
そののち、車谷長吉さんが「私小説は『ししょうせつ』ではなく『わたくししょうせつ』と呼ぶもので、なんら恥じることはない」と書いてられたのでおおいに安心して、いらい自分のへたさだけを恥じております。

私小説にしろ、そうでないにしろ、読者になんらかの発見や驚き、やすらぎ、考え込みを与えられれば、なんだっていいのではないか、というのがさいきんの結論だ。

ただやはり、好き嫌いはまじってきてしまうけれども。


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