#138 #やさしさにふれて

本日は日記はお休み。番外編です。

妻の体にお子が宿り、かと言って大っぴらには吐き出せない。

だがしかし、あふれんばかりの気持ちがあるぞ....!!、ということで始めたnote。

友人各位にも公表して、もはやどこに向かうのかもどこへ落ち着くのかも決めぬまま、狂ったように毎日更新を目標にして書き記していますが、

箸にも棒にもかからないとは思いつつも、箸か棒にはかかってほしい。

本来はバンドマン、歌うたいとして人生を費やしてきた僕としては、言葉が評価されるならそれは幸い。

評価されたい。そんな気持ちもなくはないので、今回は安易に企画に参加させてもらいます。

#やさしさにふれて

というハッシュタグを付けて、フィクションでもノンフィクションでもいいからnoteを書き上げるべしと、

更には何と賞金もくれるぞと、そういうものだそうですね。

お手柔らかに頼みます。

さて「やさしさとは何か」、そういう切り取り方で良いのでしょうか。

ハッキリ言ってこれは永遠のテーマでしょうし、僕なんかが導き出せるものでもないと考えます。直感では。

でも考えてみましょうよとすると、咄嗟には「余裕」だとか「思い遣り」って言葉が連想されます。

先読みした「ホントノヤサシサ」みたいなものを議論する機会って、誰しも一度はあると思うんですけど、

「厳しさ」ですよね多分あれは。

あれを「やさしさ」と呼ぶのはちょっとエゴイスティックなんですよね。烏滸がましい。

じゃあやさしさって何だろねってまた戻りますけど、

今回「やさしさ」をひらがな表記にしているからこそ、よりそう感じるのかも知れませんが、

同じ音の言葉である「易しい」も、あながち意味合いは遠からずと思うんですよね。

それってのは、さっきの「先読み」ってものとは真反対の、それこそ今回僕が企画参加に至った気持ちのような「安易さ」

これがどうにも「やさしさ」にはかかってくる気がしてます。

見知らぬおじさんがくれる飴玉。道行く人が転んだときに貸してくれる手だとか、かけてくれる声だとか。

それってのはもう安易なんですよね。先のことなんて考える隙もなく咄嗟に行われる。

それで他人が甘えた気持ちになろうが、自分に好意を持ってしまおうが、悪気はない。

「やさしさ」って得てしてそういう側面を持っている気がしています。言い得て妙。

浅い話ですみません。

そういうとこで人を信じ過ぎてしまって、(勝手に期待して)裏切られて傷つくのもまたワンセット。

やさしさって、そういうとこありますよね。

だから扱いに困ってしまっている人も少なくないと思います。偽善て言葉も生まれます。

でも「やさしさ」って、元から偽善なんじゃないかって思います。

「やさしい人」って、皮肉にもよく使われますし(当者比)、「やさしい人」って、人に嫌われるのが怖い人だったりします。

そして僕はこんな安易な文章で、誰も救えないような安い易い文章で、或いは賞金なんて貰えたらいいよな、なんて思ってます。

前澤さんも三崎さんもお金を配っているけれど、あれもまた「やさしさ」

しかも奇しくも10万円。

やさしさはお金なのか、お金はやさしさを生むのか。そんな話にも発展してしまいそう。

永遠のテーマですから。こんな短い文章で完結するわけがないんですよね。

安易に書き始めてしまって後悔してます。

でも、安易でないと誰かの幸せなんて願えなくて、誰もが関係している相関図を無視した世界なんて想えない。

奪い合い貶し合いが世の常で、それがワラいやエンタメに消化/昇華されるのは知っている。

だからそういうの全部忘れて、安易に、全身の力を抜いて、理屈を抜いて願えるぐらいがそれらしい。

誰しもが幸福であれば、やさしさにふれていれば、

やさしさを、安易さを受け取れる(認められる)余裕があれば、

犯罪なんか、貧困なんか、孤独なんかないかもって思います。

これから僕の元には新しい命が生まれてきます。やさしさでご飯を食べさせてあげられるならいくらでも。

叶うなら、お子にはやさしさを振り撒けるような暮らしを目指してほしい。

理想的だと感じます。

でも、多分、やさしさだけじゃダメ。言葉が足りませんが、ダメだと感じます。僕は。思ってしまいます。

これはかなしい。お子にはもしかしたらこれを否定できる未来が訪れるのかも知れません。それは願ってもない。

「本当の優しさ」

どんな形をしているんでしょうか。「やさしさ」よりも"優"れているんでしょうか。

電池残量が5%〜1%に至るうちに書き殴ったこちらのnote。

誰かの心にふれたら嬉しいです。

それでは本日も、お疲れ様でした。

追記:
やさしさにふれるとき、やさしさもまた、誰かに触れているのかも知れません。

見返りを求めるってほど、感謝をせがむような気持ちはないにせよ、

やさしさで伸ばす手というのは、どこか寂しさのような遊びを伴う気がしました。

励みになります。