#30 人を人とも思わない

三十投目。

気付いたら二週間弱、更新を続けられている。

飽きやすい自分にしては上出来です。これからも頑張りたい。

今日は妻は休みですが僕は出勤。さみしい。

ゆっくり休んでほしい。






「人を人と思わない」という表現があるが、人を「個人」として想わないことも問題だなと。

「人」という括りはデカ過ぎて、色々と認識がズレ込む要素になり得る。

「どうせみんな一緒でしょ」と脳みそに負担をかけないように情報を省略することで、転んでしまうことが多い。

それは僕もだし、あなたもだと思う。

言葉の綾、というのは何も他人にだけではなく自分自身の計算式を誤らせる。

人、ヒト、ひと。

せっかく名前があるのにも意味がある。紐解いてみれば誰一人として、同じひとなどいないのに、

カテゴライズして、断定して、考えることを辞めるようになる。

それは馬鹿というよりは恐らく賢いやり方なんだろうけど、罠にもなり得るんだーという話。

どこどこの企業なら〜とか、誰々の知り合いなら〜、とか。

そんな信用なんて当てにはならない。

その目その耳その手と足で、鼻で、感じ取らねば全ては仮定。仮定ゴライズ。






何でそんなことを考えるかってのも、言ってしまえば癖のようなものだけれど、

今は何よりお子のことに繋がる。

「どんな人(もの)と出会うか」

これがお子の人生を大きく変えるのはわかり切っていて、それを如何に提供、支援してやれるかってのが僕らの手腕にかかっている。

頭ごなしに否定なんてできない。

危ない危ないと慎重になり過ぎてもいけない。

伝わる言葉で、何より真摯な心で、お子とは向き合ってあげたい。

決して裏切らない、逃げない親であり、友でありたい。

一人でも、二人でも、信じられる、頼れる人がいるなら、きっと強く生きてくれると信じている。

いや、信じたい。これはエゴだ。

お子が僕のように「死にたい」と願う日が万が一来てしまうなら、それに寄り添って話を聞かせてもらえる親になりたい。

知らないところで、頼られもしない親にはなりたくはない。

更に理想を言うならば、審美眼のようなものを、僕らや、僕らの周りの人間の背中やお腹から学んでいただけるなら幸い。

世の中に飛び出していくのなんてきっとあっという間だ。

そのときに取捨選択を間違えない(間違えてもいいが)、間違えても立ち上がっていける人になってほしい。

最後には誰も一人、だとしても。

網膜や神経から取り入れて、心に残される幾つもの印象は、必ず背景になってその人生を彩る。

その一因として、責任として、

考え続けていきたい。

お子はお子でも、僕らのものではない。そういうものになっていく。

それを今のうちから覚悟しておきたい。

今日はこんなところで。

本日も、よろしくお願いします。

励みになります。