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曖昧で複雑な感情をシンプルなポジティブで蓋をすることの残念さよ

私の思春期〜20代前半は、少し特殊な環境にあったと思う。

母は、精神世界を愛する人だった。(今も)

私の周りには、「感謝」「愛」「美しい行い」「美徳」を語る人が多かったが、それらは大抵、自身で見つけた真実というよりは、教科書的な本で読んだことを自分に言い聞かせて、相手にも「これが正しいでしょ」と説き伏せる場面が多かったように思う。

私はそれを是として受け入れる自分と、そんな押し付けられたものに自分を委ねられるかよという、ある種の反抗心との狭間で、常に揺れていた。

結局は、人は自分の正しさを相手に認めさせたいのだ。それがたとえ、耳障りの良いことばだったとしても、美徳だったとしても、押し付けた瞬間に害が生まれるなんてことは、「善人」は知らないかもしれない。

自己啓発書とか、ビジネス書とか、物事をシンプルに構造化していかにも正解めいた「べき論」が載っているものは、居心地がいいのかもしれない。シンプルであるがゆえに、それ以上考えずに済む。その教えに沿って生きていれば、正解につながっていくと信じられる。

私もその一人だったと思う。自己啓発書やビジネス書を読むと、なんだか何か新しいものを得たように感じる。ドーパミンが出る。一時的に霧が晴れたようにスッキリし、成長したような感じがして自己満足する。それはそれでいいと思う。そういうきっかけが必要な時もある。

でも最近、そういうシンプルなものへの違和感が消えない。シンプルにするということは、ある種の危険を孕んでいる、と感じる。シンプルにした瞬間に、失われる何かがある。それが引っかかるのである。言語化が難しい何かが、ポロポロと溢れて落ちていってしまう。

最近、「カルテット」というドラマを観た。放送当時はそんなに視聴率は高くなかったらしいが、これはドラマ史上に残るくらいに傑作なんじゃないかと、個人的には思っている。主人公の四人組の人間模様が、とても丁寧に細やかに描かれている。綺麗事を言えばいくらだって言えてしまうだろう。でも、リアルの人生はそうはいかないものだ。その言い知れぬ葛藤を、潔いパワーワードで炙り出している。人の弱さを、欠点を、意味のないように思える癖を、愛おしく感じる。人間愛に満ちているからこその、脚本家の人間観察眼が為せる業なのだと思う。

人は、曖昧で複雑な生き物だ。誰でも何かしらの傷を心に抱えている。アメリカ映画のありきたりな起承転結サクセスストーリーなんかに当てはまるような、単純な生き物じゃない。立派なプロフィールも、どこかリアルさを感じない。しっかりと目標を定めて、そのためのマイルストーンを定めて、一つ一つクリアして、目標を達成する。まぁそういうこともあるだろうけれど、人生は明らかに変数の方が大きい。そんな目標達成ストーリーしか受け入れられない世の中など、息苦しさの何者でもない。

人の豊かさや美しさは、もっと別のどこかにある気がしてならない。葛藤の狭間で揺れたり、本当はAに向かってたのに風向きが変わって気付いたらDにたどり着いてたり、なんとなく向かった先で見つけた名前も知らない花とか、迷い込んだ路地で見つけた小さな雑貨店とか、外国で出会った名前も知らない老人に言われた一言とか。そういう「まさか」が人生には溢れていて、その「まさか」を味わう瞬間に、何かが生まれている気がするのだ。

「成長する」というのは素晴らしいことだと思う。でも、これまでの私は、自分に対して成長圧力をかけすぎていたように思う。

5月から1歳の子供を週4日で保育園に預け始め、腕まくりをして「さぁ、仕事も自分の人生の探求も再開だ!がんばるぞー!」なんて思っていたのだが、現実はそうはいかなかった。保育園の送り迎えや家事もあり、実質使える時間は10:00〜16:00。朝から子供を保育園に送るために、自分の準備は脇に置き、時間に追われながら子供の朝ごはんと準備。小走りで保育園へ送る。16:00頃に仕事に後ろ髪を引かれながら、子供を迎えに行く準備と夕方ルーティーンの仕込み。そこからは寝かしつけまでノンストップ。

子供が寝付いた頃にはクタクタで、「ドラマを観る」みたいなこと以上の意識高いことは何もできない。ここに、「毎月子供が何かしらの病気を保育園でもらってくる」「病気移されてフラフラになりながら病児育児」「たまに夜泣きがひどくほとんど寝られない夜」が入ってくる。正直言って無理ゲーだ。

子育てしながらの時短勤務の可処分時間なんて、たかが知れてるのだ。

仕事に復帰していろんな人と話す機会が増えて、「何がしたいですか」「どうなりたいですか」と聞かれることが増えた。

そう問われるたびに、イラッとする自分がいる。

もちろん大まかな方向性はある。でも、それ以上の具体性は、進みながら時間をかけて明らかになっていくものだと感じる。緻密に計画をしたところで、変数の大きい子育てフェーズでは意味がないとも感じてしまう。それに、人は日々学びや気づきを得て生きている。今ダウンロードできる範囲で先の未来まで決めてしまうのはなんか違う、と感じるのだ。

何より、日々生きることで精一杯で、自分のために使える時間なんて無いに等しい。だから、「何をしたいんですか」という問いが、いささか暴力的にも感じてしまうのだ。「もっと頑張らないんですか」と。

子供を産む前は、「やりたいこと」に全力で向かう自分が好きだった、というかそんな自分に酔っていた。そういうドーパミン的な幸せもいいけれど、今は、もっと穏やかな幸せをしみじみと味わいたい感じがある。子育ての影響かも知れない。

雨の日に読む小説や、意図もなく無心で描くアート、栄養のある食事の作り置き、子供と床でゴロゴロしながら笑い転げる時間、夫婦で映画を見ながら一緒に目を潤ませる瞬間、子供とお散歩しながら鳩ぽっぽを追いかける時間。

何を得るわけでもない、そこに成長目標があるわけでもない、でも確実に豊かで愛おしいその時間の意味を問われれば、確かに意味があって、むしろそれがない人生なんて、今は考えられない。

特に子供との時間の感情は複雑だ。いつか独り立ちするのが分かっている。いつか手離れていくのが分かっている。そんな切なさが、愛おしさの中に混ざっている。複雑な感情すぎて言葉にならず、常に泣き出しそうな気持ちの時も多い。

そんな複雑な感情を、曖昧で複雑な感情を、そのまま味わっていたい。変にシンプルでポジティブな言葉でベタ塗りしたくない。

人生は「まさか」の連続。複雑な感情の連続。その曖昧で複雑なところに、無性に美しさを感じる。子供が帰ってきたら、いつもより長く、強く、抱きしめよう。溢れる愛おしさと切なさで、今日も胸がいっぱいだ。

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