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コンテンツと密度。


人がコンテンツに求めるものは「密度」なのだと思う。

この記事を先に一言で要約してしまうと、これだけで話は終わる。
あとの文章はその説明にすぎない。
なお、密度は「単位体積あたりの質量」みたいに定義されるが、
ここで言いたいのはもちろんそういうことではない。

例えばあなたが映画を一本観る。
その観賞後の満足感は当然ながら作品によって違う。でしょ?
俳優の演技が良かった、下手だった。
脚本が良かった、悪かった。
カメラが綺麗だった、観るべきシーンがなかった。
そういうディテールを人は語るよね。
もちろんそれは感想としては素直なものだし、具体的だし、
感じた心情において的確かもしれない。
でも、我々が感じる満足感というのは、
もっともっと総体的で曖昧なものなんじゃないか。
じゃあ我々は何によって満足感を得るのか?

例えば脚本。一本の練られた脚本には、脚本家のプロとしての技術と、
矜恃と、思い入れと、一作に賭ける野心と、
もちろんかけた時間とが詰まっている(はず)。
そこにはやはりエネルギーの集積がある。
エネルギー自体は見えないものだが、
なんらかの熱を帯びて受け取り手に伝播する。
人間の内面が外見の印象に出るように、
それはスピリチュアルな精神論とかではなく、ごくごく当たり前の
物理的な、エネルギー保存の法則のようなものとしてあると思う。

絵画であれ、
彫刻であれ、
音楽であれ、
文学であれ、
踊りであれ、
建築であれ、
映画であれ、
つまり巷間言われる「七つの芸術」すべてにおいて、人が求めているのは
「作り手である人間のエネルギーがギュッと集積された何か」だな、
と思うのである。その何かに触れることで満足感を得る。
こう考えると、人が作品に触れることはハレの食事に似ている。

あるいはこういうことだ。
人を構成する粒々のようなものがあったとして、
それは日々を過ごすことで、時間とともにじわじわと拡散して
空気中に溶け出していってしまう。
一見、我々は人の身体を変わらずに保っているが、
その中身はどこか希薄なものになっている。
補充することが必要だ。なにか密度の濃いものを。
誰かの手によって、あるいは大勢の手によって、
おにぎりのようにぎゅっと握り詰められたエネルギーのあるコンテンツ…
それをいただくことで我々の飢餓は一時的に満たされ、
また歩いて行けるようになる。薄まった粒々はまた濃さを取り戻し、
それによって自分自身もエネルギッシュに活動できるのだ。

我々の日常は基本的に、同じことの繰り返しでできている。
人は単調な繰り返しに耐えられない。
常に何か新鮮な刺激や、別の道を模索している。
人を楽しませる作品というのは、そういう退廃的ルーティンを
いっとき忘れさせてくれるものとして存在する。
ルーティンが飽きるのは平板だからだ。ある程度予想がつく。
心を刺激しない。ワクワクもない。粒々は薄まる。
そこに良質なコンテンツという、
密度の濃い粒々、密度の濃い「他者」に出会う。
そのことによって、我々の日常は少し賑やかになるのである。
少なくとも、わずかの間は。

やぶさかではありません!