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インターネットが奪ったもの

昨夜、三宮のライブハウスを任せている店長と、今年のテーマと今後について電話で話した。

正直言って、ここ数年はライブハウスの運営は非常に厳しい。音楽事業そのものが厳しい。かつて知ったる箱はどんどん潰れ、新しくできては潰れ。今では資本が大きくて小奇麗な箱やスタジオをグループ展開をしているところか、うちのように少数精鋭でこだわり抜いているところしか生き残っていない。

うちはアンダーグラウンドな雰囲気の昔ながらの箱。ボロいガレージのようなね。なぜうちが潰れないのかは時代の波に安易に乗らず、「音楽家」としてのスタンスやモチベーションを第一に考え、興行のクオリティを保つことにこだわってきたから。だから、うちに出るのはけっこうハードルは高い。そのかわり、認められたらその後のサポートは日本一手厚い。こうやって生き残ってこれたのは、10年以上の付き合いになる今の店長の尽力がかなり大きい。

僕がこのライブハウスをオープンしたのは2000年、確か23歳か24歳の頃。三宮のJR中央口から徒歩3分という一等地のJR権利物件。
当時、音楽活動と言えばライブしかなかった。やる側も観客も、「音楽体験」としてはライブが一番身近なものだったので、うちのようなボロくて小さい箱でもそれなりに盛り上がったもんです。
当時は個人でのCD制作なんてものも一般的ではなく、僕はいち早くレコーディング事業を立ち上げたので合わせての収益はそれなりのものでした。

しかしそれから15年。

インターネットのインフラが整備され、人と人とのコミュニケーションの形を変えてしまいました。便利になったとは言いません。変えてしまったのです。
回線はどんどん早くなり、それに準じたサービスが次々に生まれ、ついには音や映像のアップロードやリアルタイム配信までできるようになってしまいました。なってしまった、のです。
インターネット環境の向上とおもしろいように反比例して、ライブハウスとしての売り上げは下がっていきました。

音楽事業者としてのメリットデメリットひとまず置いておきます。メリットもあればデメリットもありました。ただし、全体的な売上高はやはり格段に落ちてしまいましたのでトータルはデメリットの方が大きいです。

さて、本題の「インターネットが奪ったもの」。


題材として音楽を選びましたが、別に音楽に限定した話ではありません。
今はパソコンやスマホでいとも簡単に曲や映像を鑑賞することができて、「体験した気」になれます。ライブ映像やPVなんか無料で見放題ですからね。インディーズのライブにお金を払うぐらいなら、無料でプロのライブ映像を観る。思考回路としては当然なのかもしれません。プレイヤー側も同じです。怒られながら先輩ギタリストにテクニックを教えてもらうより、有名ギタリストのハウツー動画でテクニックを学ぶ。

しかしこれは、「体感した気になった」「学んだ気になった」だけの、実体験の喪失にすぎません。

生の迫力云々もありますが、生ライブと動画の優劣の話ではないのです。車通勤とジェットコースターの快感が結びつきにくいように、まずもって、別物なのです。しかし、特に多感な時期からインターネット全盛だった人達は結びつけてしまうんです。完結して、満足してしまう。

ライブハウスに行くけどライブ動画も楽しむ。これは別物としてカルチャーを楽しんでいる人と言えます。

何度かライブハウスを体感したけど、ライブ動画で満足でライブハウスには行かなくなってしまった人。これは選択と言えますよね。行かなくなった理由、動画で満足できる理由があるのでしょう。でも「どうしてもこのアーティストは生で見たい、お金を出して聴きたい」という価値観も持っている人です。

一番の弊害は、「無料動画や無料音楽だけで満足している層を生み出している」ということです。若年層はお金がないから、なんてまやかしはやめにしましょう。これについては又の機会に語らせていただきますが。

インターネットがなかった頃、僕らはTVや雑誌、有線で曲や情報を知り、カセットテープ、CDなどで曲を聴き、そのアーティストのライブや生の迫力、ステージでの表情やパフォーマンスなんかを想像していました。TVや有線は好きな時に好きな情報が与えられるような便利なものではなかったし、雑誌はお金がかかる割りには情報は限定されている。だから色んな雑誌を毎月購入するハメになる(笑)
しかし、だからこそ「与えられる情報としての」TVやラジオ、雑誌、そういったメディアが毎月、毎週、毎日、楽しみでワクワクして、妄想や想像が膨らんだものです。色んなメディアから少しずつ、時間をかけて与えられる情報をまるでパズルのピースのように集めて、自分の中で像を作っていく。それはもう楽しくて、アーティストやアイドル、物、何に対しても愛着が沸いたものです。
ああ、昔はよかったとか別にそういう話ではなくて。

実体験の次に奪われたもの。それは想像力です。

現代の主要メディア、インターネットは、「机上の情報源と疑似体験として完璧すぎる」んです。
あの頃の僕らが何ヶ月、何年もかけて集めた情報、視覚、聴覚、感覚で作り上げた像を、瞬時に得、それ以上のものをクリック一つで疑似体験できる。想像するヒマもなく、結果だけを与えてくれるんです。

想像の純度を確かめるために。あるいは想像と現実のギャップを楽しむために。あるいは新しい魅力を発見するために。生と映像を別物として楽しむために。想像力、というのは色んな派生需要や行動を生み出してきました。
しかし、その想像力、という部分をインターネットに補われてしまっては、そりゃ完結してしまいますよね。特に想像力や感性を磨くべき多感な時期からインターネットなんてものが側にあればなおさら。

実体験や想像力の欠如が引き起こす問題として分かりやすいのが暴力です。
僕が子供の頃、エアガンなんてものが流行りましてね。
ヤンチャ盛りなのでやっぱり撃ち合いなんてものを始めるわけです。チームで別れて20mほどの距離から撃ちあうわけですが、大して痛くない。じゃあ次は10mけっこう痛いけど耐えられる。5m。痛い。追い詰められる。3mから撃たれれる。もしくは撃ってみる。悶絶。

3m以内から撃ったら痛すぎる、もしくはケガするから3m以上は離れて撃つ、目にはゴーグルをするというルールが子供ながらに生まれる。

男子たるもの、ケンカは強くあれ。みたいな時期もありましたね。
ぶん殴ったり、ぶん殴られたり。所詮小学生や中学生のパワーでは大したケガもしないけど、繰り返しているうちに「ここは痛すぎる」「ここでこれだけ腫れるならここは絶対に折れる」という感覚を学んでいきました。変な話ですが、ぶん殴る時に相手のことを考える無意識な気遣い、というものを学んだのです。だから、数えきれないぐらいケンカしたあいつやあいつも、そして僕も、大怪我をしなかったのです。

今の子供はどうでしょうか。
経験の積み重ねがなく、極端に言えば「顔を殴っても死なないがレンガで頭を殴ったら死ぬ」という結果を先に知っているわけです。しかし、「どれぐらいの強さで顔を殴れば致命傷か」「中学生と大人が殴るのではわけが違う」という過程を経験で知らないから得た情報以外の結果を想像できないのです。
これは今回のテーマとはズレますが、暴力は力の弱い小学生のうちに経験させるべきだと思っています。もちろん昨今の風潮を考えると横暴な意見ではあるし程度の問題もありますが、人間というのは暴力的な側面を備えているのは事実です。万が一大人になって暴力を振るってしまった場合に、相手に大怪我を負わせない、死なせないように手加減できるためには、実体験は必要です。
逆に言えば、それがないからこそしょーもないことでキレてポンポン人が死んでいるんですよ。そこら辺もまた別の機会に。

話を戻して。
なぜ「無料で」というファクターが大きく影響するのか。

一本の充実した有料のライブ体験と、100本の無料擬似体験を価値として並行的に考えてしまうんですね。実際には並行で考えるべきものではないのですが、事実として、そうです。
インターネットによって奪われたもの。実体験、想像力、そして3つ目は

対価を払う意識と対価を得る機会、です。

対価を払う意識、というのは今回の話に限っては正しくないかもしれません。
正確には、意識の逆転、と言ったほうが正しいのかも。

これまでは、自分にとって対価を支払うにふさわしいもの、価値のあるもの、支払わなければ得られないもの、に対してお金を払ってきました。その恩恵で商業は成り立ち、作家やアーティストも利益を得ることができました。
しかし昨今、その価値観は逆転しつつあります。

【価値のあるものにお金を支払う】

【お金を支払わなければいけないものに価値はない】

【お金を取るならいらない。ケチ。】

【無料なのは素晴らしい。応援する】

文字にするとわけがわからなくなるのですが、無料ということが価値として置き換えられているんですね。

noteには作家さんやアーティスト、ミュージシャンなど色んな形で作品を発信している方がいるのんですが、こんな経験はありませんか?

無料で作品を発表した時はスキやコメントがたくさんつく。コメントも「素晴らしい」「素敵」「さすが」「すごい」など、肯定的なものが多く、作品が価値あるものとして認められたような気になりますよね。

しかし「じゃあ、売れるんじゃね?」ということで有料(投げ銭仕様)でリリースした時はどうでしょう。
スキやコメントは格段に減り、一切売れない、なんてことも往々にしてあるはずです。(まあこれは有名人やプロではない我々一般人レベルでの話ですが)
なぜでしょうか?

有料のものにスキやコメントをつけると、「有料リリースを認知している」「認知しているが買わなかった」という事実を作家に周知させるからです。じゃあ、見なかった、知らなかったことにしよう、と。価値のあるものにお金を出すという価値観ではなく、無料だから価値があるという価値観の人ですね。
もしくは、自分の印象に不利でない状況でのみコミュニケーションとして褒めてくる上っ面な人、かどちらかです。
完全有料のものに読んでもいないのにスキをつける人はそれはそれで意味がわかりません。

中には経済的余裕が原因の方ももちろんいるでしょうし、個人的価値観においてお金を出すほどの価値は見いだせないという人もたくさんいるのはわかっています。

お金を出さなくてもこれだけ色々なコンテンツ、クオリティーの高いコンテンツが得られるのに、有料の作品なんて価値がない。

わけがわかりません。価値とはなんだろうか...
スマホアプリのレビューなんかは如実ですよね。

有料のアプリや有料要素に対しての非難、否定、暴言。無料アプリの場合は
「無料なのがいいです♪」「無課金でも楽しく遊べます♪」「無課金でももっと強くなれないんですか!」「課金しないと強くなれないとかあんまりです!」

もうね。アホかと。

時間と経費かけて商売でやってるのに「無課金でも遊べます」というレビューが褒め言葉になると思ってる。これは想像力の無さと価値の逆転による脳ミソの弊害ですよね。「無課金でも楽しく遊べたよ!ありがとう!お年玉入ったらちょっとだけでも課金して貢献するよ!」だったら作り手側としてはどうだろう?嘘でも気持ちは救われるし、本当なら事業としてありがたいよね。でも、こういうコメントってのは相手の気持ちや裏側を想像する力がないとできない。
無料に群がる大勢でソシャゲとしての体を形成し、一部の重課金者で利益を上げる、というビジネスモデルが生まれること自体、狂ってるんです。
こんな想像力のないバカ丸出しのコメント書くぐらいなら、せめて黙ってありがたく無料で使わせてもらっとけよ、てのが思うところ。

先述しましたが、自分に立ち返っても、色んな部分で色んな価値観を振り分けてる事実はある。
例えばイラストとかでも、僕は書く人ではないしむちゃくちゃ興味があるわけでも見識が深いわけでもない。しかし、美的感覚や好みといったごくごく一般的な感覚として「きれい、おもしろい、なんかいい」程度のことは流れてきたイラストやネットで見かけた作品に対しては思うわけです。でも、無料なのに素晴らしい、タダで見れてなんか申し訳ない、と感じても、お金を出してまでというほどの所有欲はない、という場合がほとんどです。

無料なのに素晴らしい、と、無料だから素晴らしい

は似て非なるものです。

前者の場合、それが自分の価値観を刺激するジャンルやコンテンツであった場合、「有料だったらもっと素晴らしいかもという興味」「敬意としてお金を払いたいという意識」「お金を払ってさらなる魅力や楽しみを得たいという欲求」といった発展が見込めます。これはプロモーションとして成功している例ですが、こういう意識を持ってくれるお客さん、支援者の絶対数が年々激減している、ということがこの投稿の根底にあたる部分ですね。

それは、後者の「無料だから素晴らしい」という身も蓋もない、発展も救いもない価値観の蔓延がインターネットの発展によって多数派になってしまったことを要因としています。

しかし同時に、僕の文章のようなものにもお金を出してくれる方ががいるのも事実です。それはnoterのみなさんなら体験されている方も多くおられるかと思います。このような形はインターネットの発達がなければ実現しなかったことですよね。
ただ、それぞれが作家であり顧客でもあるという双方向だからこそという側面から目をそらしてはいけません。一方的に売りたい、自分を見て欲しいだけで他の人には目を向けない人は成立しないです。それで成立するのは、胡座をかけるぐらいよほどの有名人か、よほどの才能の持ち主か、だけです。

インターネットが奪ったもの。

それは総じて人間らしさやもっと言えば人間力なのかもしれません。
ネットでも現実社会でも、薄っぺらい人、無機質な人、が圧倒的に増えました。
現代のアマチュアミュージシャンは、無料で公開する動画やリアルタイム配信、ストリート演奏で勝手に不特定多数が観てくれることで人気者と勘違いし、いざ有料チケットが必要なライブハウスでは全くお客を集められません。告知を見てもそれはそれは薄っぺらいです。「いついつライブします♪みんな来てね♪」...なにも伝わってきません。たかがアマチュアが金取ってライブするということの失礼さ、それゆえに必要な誠意、熱意、なにも伝わらない。

来るわけねーだろ。

そういう本当は人気も人を集める力もない、有料価値もない事実を認めたくないから、ライブハウスには出ない。店のお客が来る無料のライブバーにしか出ないミュージシャンばかりになった。
そのライブからは熱気もこだわりも感情も感動も何も感じない。まさしくお金を払う価値がないものだ。

無料でしか観ない人達と、無料でしかできない人のなんの価値もない茶番が大衆化し、メインコンテンツや発信のあり方になっている。なんとも情けない時代だ。
本物の音や技術を目の前で体感しなかった、怒られること覚悟で教えを請わずにネットで見せかけの技術の真似事しかできないから、なんだか音もピロピロしている。

発信側、受け取る側、どちらの価値観もあり方も変わってしまった。僕の個人的な価値観だけで言わせてもらうと、

どいつもこいつも何もかも、女の腐ったような時代だ。

ネットが告知媒体として今ほど影響力のなかった頃。
自分も含め周りのミュージシャンはそれはそれは必死でチケット買ってもらってお客を集めたものです。わざわざ会いに行ったり、電話して頼み込んだり、ストリートで声を張り上げて熱意を伝えたり。頭下げてCD買ってもらったし、色んなお店に時には土下座してCD置いてもらったりダースを買い取ってもらったものです。
その甲斐あって、お客さんだけは多かった。ノルマ自腹出たことなんてなかった。

おそらく物件的不利は神戸で一番であろうはずのうちが生き残っているのは、そういった「人間臭さから放たれる音楽のエネルギー」をブレずに大事にしてきたからだろう。
しかし同時に、年々売り上げが落ちているという事実は「人間らしさ」なんてものに心を掴まれる「人間らしさ」がインターネットによって奪われていっているという証明でもあるのだ。

実体験、想像力、価値の逆転、人間力

色々書きましたが全ての人に当てはまるわけはありません。ケースバイケースだったり逆にインターネットによって引き出された素晴らしい文化やカルチャー、メリット、経済効果、諸々が相対的に存在することも体験、経験、そして事実として重々わかっているつもりです。

しかしそれでも、時々たまらない虚無感を感じるのです。
自分が愛し色んなものを捧げてきた結晶の未来に 少なくとも今現在は暗いイメージしかわかないことが、なによりも悲しいです。

(画像出典:the inquirer.net)

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