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自殺をしようとしている人、自殺を考えている人などへ①

2021/10/1現在、7.3万pv以上になっています。色々な方に読んで頂けていること感謝致します。また、同時に多くの方が悩まれている現実だと思っています。これから、更に混沌とした時代になると考えます。この文章を読んで何か色々と感じて頂ければ幸いです。

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長いけれど、一緒に考えてもらえたらと思います。

綺麗ごとばかりの言葉に惑わされないで欲しい。

僕自身も「考えている」人間です。

あくまで15年ほど、毎日自殺を考え、本当にダメかもしれない山場を何度も乗り越たけど、やっぱり無理なのかなという、友人、恋人、家族、支援者、医者などあらゆる人に助けてもらえなかった僕の持論である。

そして、近いうちに僕自身が、実行するかもしれない人として書けるうちに書きたいと思います。

これまで自殺をしてしまった人に思うことは

本当に辛かったと思うし、少しだけでも気持ちがわかるからこそ悲しみがよくわかります。だから、どうか次の世界では、健やかで笑顔があふれる世界で過ごして欲しいと思います。


1.死ぬことって


人生を終える手段って、たくさん存在するよね。病気とか、事故とか、老衰とか、思いもよらない突然なこととか。「命」在る者が生きていれば、必ず「死」は避けられないもの。

でも、この世界には自ら死を選ぶ「自死や自殺」も存在する。

今、僕も、その選択をしようとしている最中なんだ。本当に耐えられないことが重なってしまったから。

これまで、たくさんのことを耐えてきて、諦めずに生きてきた。多分、諦めずに生きてきたから「得られた」こともたくさんあった。もちろん、綺麗な形をしていて、みんながもっている物ではなかったよ。

辛いことは、幸せよりも多くやってくる。
生きるために必要な「楽しさ」は、不平等で不公平な分配方法である。

多分、自ら死を選ぼうとしている人たちは、こう思うこともあったと思う。

「誰か助けて」

そう心から願ったと思う。

でも助けてもらえなかったよね。全部自分でどうにかしろとか、そもそも話なんて聞いてもらなくて、楽しいことすれば忘れられるとか、そんなふざけたこというな、ネガティブだからでしょとか、病気なんだよと…

結局、死ぬ前ってこんなもの。誰も真剣になんて取り合わない。そして、そんな人たちが死んだ後に思い出すと思う?

忘れてしまうか、追い込んだ本人たちは幸せに生きてあらゆる「幸せ」を享受してしまう。中には、そうして欲しいと願うかもしれないが、遺族や周辺者が僕らの死をいいように使うなんだ。

「死人に口なし」というように、死んでしまえばいいように扱われてしまう。それは、本当に死を決めた僕らの望みだったのだろうか。

そう思うと死んでしまうことも、よく考えないといけないよね。


2.誰かに頼ること


誰かが助けてくれることは、必ずあり得ることだよ。でも残念だけど条件付きなんだ。傷つけて、おとしめて、追い込んで幸せな人だけの特権の一部が

「助けてもらえる」ということなんだ。

口先だけで助けてくれない人やなんちゃって支援者の人は、そんなことはないと激怒するだろうけど、僕らのことを本当の意味で助けてくれただろうか?心から寄り添って、お願いを聞いてくれただろうか?

僕は、これでも教育や人権とか色々勉強したし、人に寄り添った活動をしている人達に出会ってきた。今、マイノリティやしんどい人たちを救おうと闘っている人たちとも活動をしてきた。

でも、そんな人たちでさえ、僕が追い込まれていても助けなんてくれないんだ。苦しむことや悲しむことは当たり前と考えている。自分たちの利益にならない人たち、もっと簡単にいえば、自分の領域外や救えば実績になる人しか救わない。それが真実である。

こんな方法がある、これをしてみたらという割には、血だらけで全身が複雑骨折していて脳みそが飛び出そうな人に、戦争で戦わせようとするような行動を求めてくる。自分の利益になる人は、すぐ助けるのにね。

自死に関わることを扱う人たち(自死遺族など)も「死ぬって言葉を簡単に言わないで!!!!」と激怒することが大概であった。そして、死ぬほどつらい思いを潰そうとして来る人もいた。その理由は、助けたいという理由の前に、自分の近しい人たちを「自死」で亡くしている。そのため、寄りそうことやできることはないかと問う前に、自分の経験が前に出てきてしまうからなんだ。

そして、自分の経験を持ちだして、思いとどまらせようとする。僕らの気持ちを無視してね。いつの間にか、自死を経験した人が優勢になり、本当に苦しむ本人は口を閉ざすことになってしまう。相談センターで話を取り合ってもらない原因は、単純に労働問題や本当に寄り添える人を採用しない点にもあるだろうけど。

結局、本当に苦しみ、死を望むまでに追い込まれた人は、どこにも相談することはできない。医者も薬だけだして、目も見ずに2~3分の診療だしね。

誰かに頼りたい気持ちは痛いほどわかる。周りの人間は簡単に助けて貰えているのにね。なんで、ここまで追い込まれている自分は助けてもらえない。おかしい、なんでよ、どうして、と思うよね。

でも、それは仕方ないということもある。だって僕らだって、助けて欲しい人ってある程度選ぶでしょ? 本当に追い込まれているとそうも言えなくなるから片っ端からになるんだけど、最初のうちは選ぶのと一緒なんだよ。

自分の利益にならない、自分の研究対象にならない、もっと言えば、「僕/私の言った通り」になる人しか救わない。口ごたえや別の意見なんていったらもう聞いてもらない。どんなにお願いしても、まずは自分で、自分で、自分で・・・

いや、散々やってきたじゃんここまで・・・

そんな僕らの思いや行動は関係がなくなってしまうんだ。


結局、乗り越え人たちって

①根性論や努力論、自分ができたからお前もできる論の人
②支援者をしていることに気持ちよくなっている人
③自分が乗り越えられてないから、他人の苦しみに線引きを図る人

がほとんどである。まれに、とことん介入してくれる人もいるけど、そういう人は滅多にいないからTVで取り上げられるし、そういう人は「乗り越えて、救われた人」である。

じゃあ、誰に頼るんだよ、そう思うよね。僕もイマイチわからない、ただなんとなくわかってきたこともあるよ。

最後は、自分しかいない。そして、少しだけでも勇気も元気が出たら、楽しい日々を妄想するぐらいしかないと。

3.各世代にいえること(蛇足)


10代で悩んでいる場合、僕はまだ10代であればいくらでも救いがあると思う。もちろん、選択肢を間違えてもである。10代が終わりになればなるほど、後々の世代につけが回ってくるのは否めないけれど。

学校は全てではない。でも学校は全てであるともいえる。その時の思い出は、消えてしまっても大きな力になっているともいえる。

学校に行けていた人や学校外でうまくいっていた人の意見ばかりが踊っているが、そうじゃない人たちの意見を聞きながら選択してほしい。

そのことで自分の首を自分で絞める結果になり、本当に言い逃れのできない形で終わってしまう場合もある。だから冷静に選択をしてほしいことはもちろんある。

僕は、13歳から死ぬことを考えていた。いじめや不登校、家庭内暴力も高校いくことができなくなってしまった。だけど、最低最悪の手段でしか残っていなかったかもしれない。けれど、なんとか大学院まで自分のお金でやってきた。それは、許せないという気持ちが、たくさんの世界に足を動かしてくれたり、方法を探し当てからかもしれない。

でも、やっぱり正規のルート辿れなかったことは、最後まで苦しむことになる。人生の大部分を決めるかもしれない選択をする上では、正規ルートは何よりも重要なことである。だから、中学校でのいじめを経験しているのなら、僕がすぐに逃げるべきだと思う。そして高校に進み、楽しさも勉強も得られるように、ゆっくりと冷静に選択をしてほしい。

確かに学校なんて腐っている。でも、日本の教育選択は、案外やり直しが利くから。若ければ若いほどね。

20代は、正直、厳しさは始めまってくる。25歳手前までであれば、いくらでも選択肢も溢れている。それまで順調ならば尚更やり直せる。でも、僕のように、選択肢がぐちゃぐちゃな場合、かなりギャンブル性が高くなってしまう。

社会人で選択に溢れているように見えるのは、あくまでも有名大学卒、大企業にストレートで入れて、平均的な職歴や優秀な場数を踏んだものだけものである。それ以外の人は、自分の権利を侵害されるような「企業」にしかいけない。そこで耐えればいい選択肢がでてくる可能性もあるが、それはあまりにも不透明過ぎることであり、ギャンブル性が高すぎてしまう。

だから、地続きで苦しい思いをしているならば、前半の方で決めないと「思い通り」の選択を選べなくなってしまう。

もちろん、専門職は特殊技能ならば話は変わるけれど・・・お金や時間、本当に資格が取れるのかを考えるとリスキーと感じてしまう。

30代以上の場合、日本はかなり厳しいように思う。中には、公務員・準公務員や大手企業、大学教授などつまずいても活躍できる機会は用意されている。でもそれは、あくまでも”これまで”がうまくいいっていた人”という限定条件がつく。

国家公務員も地方自治体も40歳上までキャリア採用している。しかし、条件は、正社員歴10年以上など”普通”ならば当てはまるかもしれない条件を平気で突き付けてくる。そして結局、受かる人間は、有名大学卒の最大手(旧財閥系などの)の役職付きだった人がほとんどだったという話もある。

一度でも、確かにつまずいたら救われないのかもしれない。死を考えた方がいいのではないかと思うかもしれない。

ただ、これだけ普通の人や救われて乗り越えた人たちのために用意された道ばかりあると思うことはないだろうか。


いや、まじでおかしくないか?と


4.死ぬ前に考えなくてはならないこと


死ぬ前に考えないとならないことは、たくさんあるよ。

僕らが経験したかったこと、僕らが欲しかったこと、僕らが心から望んでことは、二度と経験できなくなるということ。

僕らが死んだあと、僕らを苦しめた人々や見て見ぬふりをして人たちは、僕らの苦しみなんて知らずに「どんどん幸福」になっていく。好きな人と愛をはぐくみ、これから訪れる素晴らしい時代を感じて、僕らのことは何も考えずに天寿を真っ当してしまう。

僕らが心の拠り所にしていた、本やアニメ、アーティストの歌、ドラマなどはどんどん新しいものが作られてしまう。

手をつないだり、語りあったり、美味しいもの、素敵な洋服、行ったことのない場所、まだまだ溢れてきっと増えていく。

もしかしたら、苦しんだ経験が評価されて、叶えられなかった夢が実現するかもしれない。

死ぬ前には、多くの可能性を考えないといけないよね。それさえ考えられないかもしれない。でも、血を吐いてでも考えないといけない。

自分で自分の可能性を潰したら、苦しめてきた人間と一緒でしょ。

多分、死ぬことを止められなかった人たちは、僕らの苦しみ以上に、被害者の面をして悲しみを語るだろう。その悲しみを語る前に、助ければよかったはずなのに。

そんな人たちだけがいい思いをしていいのだろうか。

死ぬということは、何もかもひっくるめて、死ぬことで見返したい人たち、訴えたい人たちなど、あらゆる人たちは「自分にしてきたことは無罪放免で許してあげる、おまけに最高に幸せになってね♡」というとんでもないことと同義である。

それでも、僕らは死ぬべきなのだろうか。わかっていても僕は「死ぬべきなのだろうか」と、悩み悩みまくってしまう。

それだけ追い込まれているのだろう。さすがに今日は本当に辛かった。

世界は続くし、辛いことは明日の朝になっても変わらない。でも、僕は、一つだけ確実に譲りたくないものがある。


悪人に人権や幸福があるなら、
僕らには「どんな幸福も享受する」権利があると。


それだけは忘れたくないし、自分の死を誰かに使われたり、いいように遊ばれたくない。自殺はそういうことを「オールOK」というサインになってしまう。

もちろん、これまで亡くなった人たちは、そんなつもりではなかったと思う。でも、加害者や世間は、いいように扱い、忘れている現状もあるわけだから、とてもとても悩んでしまう。


5.最後に


今僕は、死を真剣に再度考えてしまっている。

それでも、誰も救ってなどはくれない。

僕の世界では、利益がある人間以外を救われないし、いじめや暴力、不正・不公平が絶対的な正義であるから。

だけど、僕は諦めたくない、本当は死にたくないし、幸せになりたい。

美味しいものも食べたい、友達が欲しい、愛されたい、楽しいこと一杯経験したい、会いたい人に会いたい、やりたかった仕事をしたい、いつかまた研究をしたい、少しだけいいから見返してみたい、こんな僕でも誰かの力になりたい、社会を少しでも変えられたらいいな

そんなふうに強く思う自分もいる。

でも、生きることを許してもらえない。どうしたらいいのだろうね。どうしたらいいのだろうか。

僕も、あなたも、幸せになる権利はもっているんだから。

死ぬって簡単なことじゃない。結局、悩みに悩めることこそめぐまれているのかもしれないね。



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