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外見至上主義(ルッキズム)と僕〜愛されないことの存在意義と差別性〜



一番最初の「外見至上主義と見た目問題」でも語ったが、僕の生きる世界では「容姿」という変えられない事実が人生を歪ませている1つとなっている。

もっと言ってしまえば、「人に愛される容姿をしていない」ということが言える。どんなに性格が良くても、どんなに努力をしていても、醜悪であることor性的な匂いがしない、あるいは合わせた形であることを指摘される。

人に愛される、という世界は

ごく普通の暮らしが必要なわけではなく、どんな社会階層でも得られるものである。

しかし、題名にもある通り、恋愛には「外見が優れていること」が求められる。確かに、人はそれぞれ「異なった視点」を持っている。だから、美意識にも大きな差異がある。

ならば、こんな問題はそもそも取り上げる意味はないのかもしれない。

だが、自分の容姿を好きになってもらえる人に巡り合わなければならないハードなものがある。容姿が良ければ、そんな運に任せたことはしなくても済む。

僕自身の周りには、愛されたことがない人はいない。


少なからずこの世界には「愛されない人」がいる。「愛すること」だけの力を持った人ということだ。


恋愛や結婚、パートナーシップは、愛されることと愛されることが伴わなければ成立しない。

誰しも経験できるように思われるし、本来の妥協(無理のない範囲での取捨選択)をすれば可能だとされる。

しかし、ほんのひと握りの人間は、どんなに努力しても愛されることが出来ない人がいる。自分の好きという感情を全て組み替えて生まれ変わらせるまでの構造変化(妥協)をしなければならない人がいる。

現代では、恋愛という人間が「対」になることをしてこなかった者を欠損品や人間として終わっているとする風潮がある。そしてそこには、絶対的に救済や支援は存在しない。

恋愛の根底には、生殖を伴わなくても「利害」が必ず発生している。そのためメリットを与えられない、それも存在や価値という目に見えないものが確立されていない人は恋愛をすることを許されない。そして、選ばれることもないし、どんなに努力をしても選ぶことさえもできない。

愛されないで生きていくというのは不可能なことではない。ただし、心にはとてつもない傷と痛みを伴う。アセクショナルな人達もいるが、好かれたり愛を求められるする人も多い。そうなれば、そうではなくてもどんなに頑張っても愛されない人は想像もしない苦しみを持つ。


なぜそこまで語るのか、と言われれば

僕自身がそうだからである。どんなに頑張っても容姿やメリットのなさ、性的な匂いがしないという理由から愛されないからである。

自分からしか行動することがないにも関わらず。

いつしか、それが当たり前になってきて、心が壊れていくと案外楽になってきてしまう。もう愛されることがないと分かると、人に好かれようと思わなくなるからである。もちろん、誰からも愛されなくても、人間として生きる以上、不潔であることや少しでも自分が嫌な思いをしない程度には着飾る。

でも本当に好かれなかったのか。

それは本当なのか。一生懸命考えると、物凄く悩んでしまう。

少なくとも「愛の言葉」を向けられたことはない。つまり告白はされたことがない。遠回しなラブコールがあったかもしれない。しかし、直接伝えることもできないラブコールは、ただの雑音にしかないならない。

ましてや、人に告白をさせようとする魂胆が許せないし、人に努力をさせても自分は努力しないなんていうのはおかしな話である。それも一つの自意識過剰であったかもしれないから、よく分からない。

人に紹介もされない、お願いしてもはぐらかされる。そもそも、自分を大事にしてくれる人が周囲にいたのか?と問われれば否である。

つまるところ、そもそも自分という存在が誰にも愛されてない認知されていないというところに尽きてしまう。

僕の人生や傷つきなどが原因でもある。人と同じようになれなかった、多くの人とは違う視点で世界を見ていたり、趣味も同世代の好みには合わないものばかり。だからといって、同じ世界観を共有していることが僕は嫌いであるから、より難しくさせてしまう。

僕は僕と同じ感性を持つ人が苦手である。自分を見ているようで気持ち悪くなってしまういうのがある。だから、自分とは正反対の人を好きになる。

確かに、普通は同じ感性を持つ人同士なのかもしれない趣味も含めて。

でも僕は生まれたときから否定されてきたし、今になっても否定される。そして、僕の好きな物を好きな人達は、僕が苦手としている外見や僕自身が必死に戦っているものを放棄した人も多い。

こうして文字化していると気がついてくるが

僕は本当に傷つきすぎてしまって、本当に誰にも愛されてこなかったのかなと思い知る。自分という存在を、どれだけ否定されてきたのだろうか。

世界には一定数、愛されない人がいる。

その中で、命を落とし、命を捨て、命を殺されていく人がいる。愛されないという世界に、才能が渡されて「自分ではない」ものに好意を寄せてもらうことで愛される人もいる。搾取と暴力性を隠して愛される人もいる。

だから愛されるためには、必ず何かが必要になる。僕は必死になって作ってきても、この人間界では不必要なものばかりだった。

何もかもが失われても愛される人がいるのに

僕はあってもなくても愛されなかった。

この話題になると、途端に無視をしたり口を噤む人が大勢になる。そう、例えば、差別を黙認に、殺されかけても無関心な人々の眼差しを体験出来てしまうかのように。

いくら人権に富んでいても、恋愛の話になれば自己責任論や根性論を持ち出す始末である。僕のように、多くのマイノリティや傷つきを持ち、人権関係のことをやってきたからこそ見えてしまうのもある。

人間誰しもが差別主義者なのである。

より人に愛されるという観点においては、どんな人でも大虐殺を行うぐらいの差別主義に飲まれてしまう。

「愛される」というのは、多くの犠牲の上にあり、報われなかった人達の血や骨、人生までもが「愛された人」たちの下敷きにされてしまっている。

僕は愛されなかったからこそ、この地獄を見つめられたのかもしれない。でももう疲れた。もういい加減、世界から色をなくさないで欲しい。


僕は何度繰り返せば愛される世界にたどり着くのだろう。

あと僕は何度繰り返せば認知される世界にたどり着くのだろう。

あと僕は何度繰り返せば心を壊されずに住むのだろう。

そんな毎日を繰り返して行った先に、幸福はあるのだろうか。

外見至上主義によって多くのものが傷つき壊されていく。あなたも私もその一端を担い、私自身悲しみにくれる。永遠の課題なのである。



夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。