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対等な関係を築くうえで必要なこと


もちろん自分自身が期待しすぎていたのかもしれない。「分かり合える」ということを信じすぎていたことが問題であったのだろう。

最初から生きてきた世界が違うし、能力だって違う。頑張れば評価される世界と頑張っても評価されない世界の人間では人生が大きく異なる。

大きく差異があるという時点で、互いを対等にすることなどは多大な労力が必要になる。

だから、ある程度の「地位や所属」「将来性と共感性」「配慮とすり合わせ」が必要なのだ。

それらの担保がない限り、パワーバランスがどちらかに偏ってしまう。

最初から偏りのあるパワーバランスや利害関係の一致で関係性を築くのであれば納得できることもある。また、自分の意見が全てないものにされても、消費されるだけの存在になっても受け入れることが可能である。あらかじめ理解できているわけだから、自らの消費行動をとれるし、安全な距離に逃げることもできる。

でも、「対等」であることが根底にあり、何事において「対等」を求めるにも関わらず、一定以上の能力やパワーがある人間たちが「行動・方針・内容など」を決めてしまうことがある。そうなると、消費されることや自らの意見が潰され強制されたときに、うまい具合で回避することが不可能になってしまう。

その結果、立場の弱い者ばかりが意見を潰され、立場が強いものが支配するという「既存の組織」が出来上がっていくのである。

そもそも意見や立場が対等であるはずなのに、力がある者たちの世界では疑問なことはしっかりと考えるが、自分たちの世界では得ているからわざわざ得る必要のないもの、自分たちは助けや支援があるからあやふやなままでも構いことに関しては無頓着になってしまう。

もっとこうしなければ伝わらないという意見を持ち、もっと自分たちの意見や存在をしっかり伝えたいと思うことが多いマイノリティ・サイドにとっては、マジョリティ・サイドの持ち合わせる「普通や当たり前」の恵まれを前提に進まれてしまうと本当に苦しくなる。

ならば、最初から「対等さ」を求めることはリスキーなことなのである。あるいは、始まりはそうでなかったとしても「対等さ」を重視しようと舵をきったとき、パワーバランスに差異がないのかを調べないと継続や思いのレベルにリスクが付き纏う。

ここで明らかな差異がある場合、必ず埋め合わせをする必要がある。

それは意見の部分なのか、立場の部分なのか。地位や所属の部分なのか、それは個々でことなるだろう。

ある程度の恵まれや力がある者は、ない者たちに対して自らの資源を分配する義務はある程度存在をする。もちろん、常にではない。同じ組織や同じ目標を掲げて進むのであれば必要なことである。

そもそも、マジョリティや恵まれている人々は、分配(加配)や良質な機会を提供されてきたはずだ。にも関わらず、提供されてきた自分たちは、別の他者にはしないという横暴さは大きな問題である。

いや、自分の利益になれないと決めたものにはしないだけ、ということなのだろう。

であるならば、永遠に自分たちと同じような人々とよろしくやればいいのである。そして、世界をより貧富の格差をつけたり、差別的な世界にしてもらったほうがよっぽどいいのである。

マイノリティや恵まれていない人たちと手を取り合って進めていくのであれば、自らの良質な世界や資源をしっかりと分配し、格差をなくしてから行動を共にしなければならない。

「対等」という言葉の前に、まずは自分たちの恵まれを“フラット”にしなければ、結局、特権的な人として君臨して場を支配してしまう。それどころか無意識・無自覚のうちに、自分たちのいいように場を書き換え、共に歩めない・同様の志向性にならないほうが異常であると決めつけてしまいかねない。

全てマジョリティや恵まれている人が悪いわけではない。

私たちは、あまりにも弱いということがいえる。好きでそうなったわけでもないし、望んでそうなったわけでもない。でも私たちは、マジョリティや恵まれている人たちに期待をかけすぎているのかもしれない。

いつか分かってくれる、いつか助けてくれる、いつか気が付いてくれる、いつか届くはず。

それはかなり難しいことなのである。だって世界が違いするから。

マイノリティのなかでもモデル・マイノリティだけが理想を描けるという問題を持っている。それは、どういう環境にいて、どういう人が周りにいて、マジョリティと同様の恵まれがあったからこそモデルになれたということを理解しているはずである。だから、私たちとは似て非なる者だということをどこかで距離をとっていると思う。

でもマジョリティは、そもそも違う。似ているように見せて、全く異なっている。

選択肢も、環境も、人も、道具も、思想も、世界も、何もかもが違う。

そんなこと私たちは分かっているから口にもしないし、心にしまっておく。

だから、「対等」などどこにもない。対等な関係を築くには、まずは環境や機会、持ち合わせている恵まれを配分するところから始めない限り、必ず遠くない未来に問題が生じてしまう。

常にスポット・ライトが当たる人たちのそばで、自分だけが当たることもなく、戦い続けることがどれだけの苦しみなのかを経験しなければ理解できない。

対等さは、言葉や態度で作るものではない。まずは、立場そのものをフラットにして、富める者が自らの資源を分配するところから始めないかぎりは「対等さ」などは実現されない。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。