傷ついた葦を折ることなく

 聖書のなかで、いちばん好きなフレーズは? と聞かれたら、タイトルにあげた一節を答える。旧約聖書のイザヤ書にある42章3節だ。

傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。(イザヤ42:3 新共同訳)

 この聖句は、まだノンクリスチャンだったころ、パスカルの『パンセ』について書かれた本(書名は忘れてしまった……)で知った。
 パスカルといえば、「人間は考える葦である」という言葉がよく知られている。
 その言葉は『パンセ』のなかで述べられたもので、なぜパスカルが人間を葦にたとえたかというと、上記のイザヤ書の「傷ついた葦」に由来する、という内容が、その本には書かれていた。

 実は、そこで引用されていた聖句は新共同訳とは異なる訳で、「裁き」にあたる部分は「公義」と翻訳されていた。それもあって、そのときは抵抗なく読めた(他の部分も微妙に表現は異なっていたが、裁きと公義ほど印象の違うものではなかった)。

 私だけではなく、多くの人が、何らかの傷を負いながら人生を歩んでいると思う。
 当時の私は、それまでに受けてきたダメージの痛みや、それに起因する恐れから、なかなか浮上できずにいた。
 そんなときに偶然目にしたせいもあり、「傷ついた葦を折ることなく」の部分が、直球で心に飛びこんできた。続く「暗くなってゆく灯心を消すことなく」の部分も、沁みた。
 なんて優しい言葉だろうと思った。

 けれどもキリスト教の洗礼を受けたあとで、その教会で用いられている新共同訳の聖書をあらためて読むと、「裁き」という言葉が引っかかった。どうしてそうなっているんだろう、とちょっと疑問に思っていた。
 イザヤ書のこの箇所は、新約聖書のマタイによる福音書12章20節と対応している。

正義を勝利に導くまで、
彼は傷ついた葦を折らず、
くすぶる灯心を消さない。(マタイ12:20 新共同訳)

 ここでは「裁き」に関する部分を「正義を勝利に」としているから、ネガティブな意味での「裁き」ではないとわかる。それでももやもやしていたら、あるとき、ある牧師が、「裁きとは救いです」と言った。それを聞いて、すっきりした。

 傷ついた葦を折らずに、くすぶる灯心も消さずに、救いへと導いてくれる。そう考えると、とてもありがたい。
 そういう神さまを信じたいと思うし、そんな神さまがいてくれると信じることで、すこし救われる気持ちになる。

 あえて裁きや公義といった言葉が使われているのは、その救いがイエス・キリストの十字架刑を経てもたらされる、という意味が含まれているからかもしれない。ただ、私は一信徒として=いまどきのクリスチャンとして、どんなふうに信じて日々暮らしているのか、という話をこのnoteではしていきたいと思っているので、ここでは神学的なことは深堀りしない。

 ちなみに、パスカルの言葉として有名なフレーズ「人間は考える葦である」は、もともとはもっと長い文章だ。

人間は自然のなかでもっとも弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。(『パンセ』より)

 いまは世界がコロナショックの渦中にあって、人間は自然のなかでやっぱり弱い存在だったのだとつくづく思わされる。だけどパスカルの言うように、弱い葦でも「考える葦」なのだから、知恵と思慮とによって乗り越えていけたらいいなと願っている。



◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、hanakokoroさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。


↓「信じ方は人それぞれ」の記事もどうぞご覧ください。


ありがとうございます。みなさまのサポートは、詩や文章を生み出すための糧として、大切に使わせていただきます。また、お仕事のご依頼はページ下部の「クリエイターへのお問い合わせ」からお願いします。キリスト教メディアの出演・執筆依頼も歓迎です。