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小説に作法は不要 ~筒井康隆『創作の極意と掟』

 先日、ネットで何か調べものをしていたときに、偶然、こちらの記事を見つけました。作家の筒井康隆さんのエッセイです。「小説作法の類は読まなくてよい」という見出しに惹かれました。

※上のリンクは記事のトップページです。「小説作法の類は読まなくてよい」という見出しは記事の2ページ目に出てきます。

 この記事が面白かったので、記事中で紹介されていた筒井さんの著書『創作の極意と掟』(講談社)を読んでみました。

※現状、Amazonで試し読みができます。

 こちらは講談社の特別サイト。刊行記念の動画もあります。

 2014年に刊行された書籍なので、ご存知の方は多いのかもしれませんが、私は不勉強で、いままで知りませんでした。
 たまたま私も最近、↓こちらの記事で書いたとおり、「いわゆる小説作法にはもうこだわらず、自由に書こう」と思っていたところだったので、その気持ちを後押ししてくれるような本書の内容に、とても気が楽になりました。読んでよかったです。

 たとえば、「序言」にあるこんな箇所。

「小説作法」に類するものを何度か求められたのだが、いつもお断りしてきた。小説とは何をどのように書いてもよい文章芸術の唯一のジャンルである、だから作法など不要、というのが筆者の持論だったからだ。(中略)だからこれは、本来の意味での小説作法ではないことを知っておいていただきたい。
〈筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社)より〉

 本編の項目も「凄味」「色気」「実験」「逸脱」など、興味深いタイトルが並びます。そして、著者が序言で「本来の意味での小説作法ではない」と語っているとおり、書き手目線でのリアルな話が展開します。

「語尾」の項では、「だ」と「である」について、人によってどちらがいいか意見が異なることを指摘し、「どちらでもよい」という結論を示してくれます。

そして小生はこれに関しても、現代ではもはやどちらでもよいという結論に達しているのだ。その作家の読者に対する姿勢は文章全体で判断されるべきだからである。
(中略)
どこでどのような語尾にするか、これは作者が作品全体から判断して決めるべきことだし、作法本の通りにすればよいというものではない。
〈同〉

「その作家の読者に対する姿勢は文章全体で判断されるべき」という部分には、ほんとうにそうあってほしい、と願いに似た感動を覚えました。

 さらに、「濫觴(らんしょう)」の項にはこんな記述も。ちなみに濫觴は、小説において言うなら冒頭・書き出しのこと。

ふたたび言うが、小説作法本に小説の出だしはどうあるべきかなどと書かれていれば、こうれはもう無視した方がよい。考慮されるべきはあくまで、「その小説の出だしはどう書けばよいか」である筈だ。ひとつひとつの作品にはその作品に最も相応しい出だしがあるのだから、それを考えることこそ個個の作家の作業なのである。
(同)

 筒井康隆さんのような大作家がこんなふうにきっぱり言ってくださると、すっきりしますね。

 結局は、何のために小説を書くのか、ということにつきるのかもしれません。少なくとも、私の場合はそうです。
 私は自分が表現したいことを伝えるために書いていて、それを伝えるのに小説というジャンルが適しているから小説を書くのですから、どう書くかは私の自由。自分が表現したい内容に適した表現をすればいい、ということだろうと思います。

 昔から、ライターの仕事と創作活動は切り分けてきました。真帆沁という筆名を持ち続けてきたのは、そのためでもあります。
 ライターの仕事で書く商業的な文章は、出版社やスポンサー企業のオーダーに合わせて考えますし、もちろんそこには「売る」前提の配慮があり、売り上げを伸ばすことを目的とした言葉選びや技術があります。
 でも、私にとっての小説や詩は、それとは別のものです。もちろん、小説や詩がいくらかのお金になれば、それだけ執筆時間が確保できますからうれしいですが、第一目的ではありません。
 好きに書いて、発表する。せっかくそういうことができる時代になったのだから、創作は自由に~と思っています。


◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、kimuko(paludosnm)さんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。


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