見分ける知恵を願う

 最近、私にとっての祈りについて、いくつかnoteで記事を書いた。キリスト教ではいま受難節(レント)の期間なので、イエスさまの十字架について自分の考えを深めたい、という気持ちもあった。

 こちら↓の記事の最後のほうで、「ある意味での采配を天にゆだねて~」という表現を用いた。

 今日はそれについて、すこし書きたい。

「ある意味での」という部分を端的に言うと、下記の姿勢につきると思う。
 エリザベス・キューブラー・ロスとデーヴィッド・ケスラーの共著『ライフ・レッスン』で、「従容の祈り」として紹介されている部分を引用しよう。

神さま。願わくは、変えられないことを従容としてうけ入れるゆとりと、変えられることを変える勇気と、そのちがいを知る知恵をおあたえくださいますように。
(『ライフ・レッスン』より)

 これと同じ内容は、「二ーバーの祈り」と呼ばれる有名な祈りの一部にもある。古くから親しまれてきたものだから、ご存知の方も多いだろう。アルコール依存症や共依存の人たちの自助グループなどでも採用されていて、キリスト教の枠を超えて広く使われている祈りだと思う。

 でも、このように祈ったところで、「神さまの返答が聞こえた」という人は、そう多くはないだろう。
 私の場合は、日々こうして祈ることで、自分のなかに、「自分で変えられることは、行動する勇気を持とう」「自分のちからでどうにもならないことは、静かに受け入れる努力をしよう」という気持ちが芽生えてくる。そして、「そのふたつを見分けたい」という意識も。私にとっては、プラスの変化だ。
 そうしたところに、祈りの本質があるのではないかと思っている。

 ちなみにキューブラー・ロスは『死ぬ瞬間』の著者として知られているけれど、私は晩年に書かれた本書『ライフ・レッスン』も好きだ。
 終末医療の先駆者である著者が、自身の生と死に向き合い、共著者の手を借りながら、総決算的に考えをまとめている。これまでも何度か読み返しているが、今日またページを開いたら、再読したくなった。

 現状、amazonで試し読みができ、入手もできる。

 未読の方にはおすすめです。

 さて、本題に戻って、ひとつつけ加えたい。
 勇気と従容だけでなく、自分のちからで変えられることと変えられないこと、そのふたつを「見分ける知恵をあたえてください」と願い続ける姿勢も、大切だと思っている。
 ひとりよがりの判断で、よしとしてしまわないように、いつも人間より上の存在を意識する。その存在は「愛」や「善意」や「誠実」だ。だから、私の場合はそうすることで、視野が広がったり、自分を大切にできたり、人に優しくなれたりする。

 とはいえ結局は、個人の信じ方の問題なので、あくまでも、いまのところの私の場合は、という話だ。クリスチャン同士でも、お互いの祈りについて深く語り合うことはあまりないから、私はこんな感じ、というのを書いている。
 基本的には私を含めてそれぞれが、それぞれのなかで、深めていくことだろう。
 その上で、これらの私の記事を、さまざまな教派のクリスチャンをはじめ、思いのほかたくさんの人が読んでくださっているようで、うれしい。
 こんなクリスチャンもいるんだな、くらいに思っていただければ幸いです。



◇写真は、みんなのフォトギャラリーから、hanakokoroさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。


↓「信じ方は人それぞれ」については、こちらの記事もどうぞご覧ください。


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