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信仰は、ともに歩いていく道の風光のなかに ~来住英俊著『キリスト教は役に立つか』

 日本では、キリスト教の入門書がたくさん出版されていますが、あまりしっくりくるものがないなあと思っていました。そもそも本を読んで入門するものではないですし。
 そうした本の多くは、キリスト教の歴史や聖書のエピソードについて、ざっくり知識として得られるようにつくられていて、信仰の本質とはかけ離れていると感じます。「知る」ことと「信じる」ことは、まったく異なると言ってもいいからです。

 たとえば、山登りの入門書をたくさん読んでいくら知識を収集しても、実際に山に登ってみなければ、登山のたいへんさや楽しさ、それをやってみることで得られる喜びが、実体験としてわかるということはないでしょう。

 私自身もこのnoteで、キリスト教を信じている人=私というひとりのクリスチャンが、実際に何を感じ、どういうふうに暮らしているのかを伝えたいと思い、あれこれと記事を発信しています。
 けれども、人生は人それぞれ、信じ方も人それぞれ。信じるとはどういうことかを書くのは、試行錯誤の連続です。

 その点で、こういう本がほしかった、待ってましたと(2017年の発行時に)思ったのが本書。「信仰を生きる」とはどういうことなのか、著者の体験や、実感をまじえながら、知的に、かつわかりやすく書かれています。 

 著者は、東大の法学部を卒業し、大企業に就職して社会生活を送ったのちにカトリックの信仰を得て、司祭に転身したという異色の経歴の持ち主。
 私も人生の前半をノンクリスチャンとして生き、40代で受洗しましたから、キリスト教を外から見ていた時の経験に似たところがあるのかもしれません。

 本書の「はじめに」に、次の文章があります。
《キリスト教とは、「神の子が十字架上で死ぬことによって人類の罪を贖った」と信じる宗教だと聞いている人もあるでしょう。それはそれで間違いではないのですが、日本人にとってのキリスト教信仰への入り口としては適切ではないと思うので、(略)。》

 まさにそうだなあ、と思います。
 では、どう考えたらよいのかというと、著者は↓このように「キリスト教信仰の要約」を示してくれます。
《キリスト教信仰を生きるとは、正しい教えに従い、立派な人物の模範に倣うことではない。/キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むことである。(略)》
 これには、ほんとうに同感。
 私自身、自分の罪を贖ってもらうことを期待して信じているというよりも、イエス・キリストという人を尊敬し、慕い、ともに人生を歩んでいきたいと思うからこそ信じているのです。

 著者はまた、《宗教は現実に地上を生きている人たちの営みですから、その実体は到達点よりも、実際に歩く道の風光の中にあります。》と書いています。そして、その「実体」について、巧みに、おもしろく、そして豊富な知識を交えて解説してくれています。

 文体が、やわらかい話し口調なのも魅力。
 ノンクリスチャンの方にも読みやすい言葉遣いで、信仰について深く掘り下げている良書です。
 聖書の引用も適切になされているので、手元に聖書がなくても読み進められます。


◇「信じ方は人それぞれ」については、↓こちらの記事もどうぞご覧ください。



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