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1960年ごろの「菊竹現象」|藤森照信─「菊竹清訓氏が述懐する丹下健三」あとがき

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

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菊竹さんが学生時代にたくさんコンペをしていることは知っていたが,それが生活費のためとは初耳だった.
いってみれば,”懸賞金稼ぎ”の真剣勝負である.
その真剣勝負で丹下さんにバッサリやられ,頭を丸めて会いに行き,次は勝ちます,と宣言した.この逸話はもちろん初耳で,菊竹さんもこれまで話さないようにしてきたそうだ.

卒業後,丹下研に一週間だけいたというのもおもしろかった.最盛期の丹下研の近寄りがたいような熱気と超多忙ぶりは,いろんな人から聞いているが,1950年のころは,菊竹さんの記憶によると,そうとうヒマだったらしい.当時の丹下研は,ピースセンターの仕事はあるものの,予算不足で思うようにはかどらないし(結局6年かかった),これ以外には地方の中小博覧会の仮設会場や展示場の仕事があるくらいだった.
ちなみに,仮設建築をのぞいて,丹下の処女作は,「愛媛県民館」(『新建築』1954年7月号掲載)と自邸(『新建築』1955年1月号掲載)と「広島児童図書館」(『新建築』1954年7月号掲載)になるが,この3作ができたときの丹下の年齢は40歳.
まことに遅いデビューというしかない.それ以前には住宅のひとつさえ実現していないのである.代表作の「ピースセンター」(『新建築』1955年6月号掲載)は42歳,「東京都庁舎」(『新建築』1958年6月号掲載)は44歳,「香川県庁舎」(『新建築』1959年1月号掲載)は45歳,そして「代々木のオリンピックプール」(『新建築』1964年10月号掲載)が51歳,40歳でデビューして51歳でピークへ.
ごく短期間に駆け上がったことになる.


丹下さんが,ある時期,菊竹さんの仕事ぶりを強く意識していた,ということを槇さんからうかがったことがあるが,その時期はおそらく1960年前後の頃と思われる.具体的には,「スカイハウス」,「出雲大社庁舎」(『新建築』1963年9月号)そして「海上都市」あたり.
もっと絞れば,1960年の世界デザイン会議に期を合わせてのメタボリズムグループの結成と,会場で売られた作品集『メタボリズム』だろう.

現在,メタボリズムというと黒川紀章さんがまず念頭に浮かぶが,『メタボリズム』を見る限り,成長とか増殖とかのコンセプトをちゃんと造形化しているのは,そしてイメージとしての純度の高さという点では,圧倒的に菊竹さんなのである.実際,頁数の半分くらいを菊竹作品が占めてもいる.

丹下の「東京計画1960」は,デザイン会議の開催直前,丹下のMIT滞在中に着手され,会議閉会後,神谷宏治,磯崎新,黒川紀章を中心的スタッフにして本格的にはじまり,翌年早々,発表にこぎつけているが,アメリカでの初期案(未発表)と最終案にはユートピア性という点で決定的な差が認められ,どうもその差は『メタボリズム』に載った菊竹の「海上都市」,「搭状都市」の影響ではないかと影響されるのである.



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