仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか――五分でわかるまとめ・そのⅠ

 哲学研究者として著名な仲正昌樹先生が、「月刊極北」のウェブ連載でぼく(山川賢一)を批判しつづけています。

自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、「お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!」、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状
http://meigetu.net/?p=5361

ポストモダンをめぐる大陰謀論
http://meigetu.net/?p=5417

偏狭な「敵/味方」思考で退化が進み、棲息域が狭まる反ポモ人たち
http://meigetu.net/?p=5457

「ポストモダン」と「ソーカル事件」に便乗して目立とうとする「山川賢一とその仲間」という寄生虫はどうやって生まれてきたのか?http://meigetu.net/?p=5626

理解できない外国語の文法を恐るべき妄想力で変更する、驚異の反ポモ人間――バカに限界はないのか? http://meigetu.net/?p=5829

反知性主義で一味を集めようとする反ポモ集団(山川ブラザーズ)の浅ましさhttp://meigetu.net/?p=5928

日本的な反ポモ集団は、読解力の低さによって“結束”しているのか?―山川ブラザーズの甘えの構造 http://meigetu.net/?p=5996

 連載は月一ですから、もう七か月もこの状況がつづいているわけです。なぜそうなったのかという経緯は、こちらをご覧ください。

 仲正先生の批判は大変な分量に及ぶので、一体なにが語られているのか、すぐに理解できる記事を書くことにしました。

 一言でいうと、仲正先生は、ぼくがツイッターで行った発言について「山川の主張はまちがっている!」と言いつづけています。この指摘が正しいなら、ぼくも勉強になって大変助かるのですが、残念ながら大量に捏造が混じっています。もっともわかりやすいパターンは、次のふたつです。

①山川「Aという本に○○とかいてあったよ!」
仲正先生「山川の主張はまちがい。Aという本は××という内容。山川はこの本をじつは読んでいない」
この××が捏造、というパターン。

②山川「Bという本はとても参考になったよ!」
仲正先生「Bという本には△△という欠陥がある。そんなこともわからずにBをありがたがる山川には、なにもわかっていない」
この△△が捏造、というパターン。

 仲正先生の捏造でほかに目につくのは、ぼくが言っていないことを「言った」というパターンです。しかし、こちらはぼくの全ツイートをチェックでもしてもらわないかぎり、嘘だと立証することは難しい。たいして上のふたつは、具体的な本の内容についてのものですから、立証しやすいという長所があります。なので、この2パターンに話を絞って、実例を挙げましょう。

 実例はみな、「ポストモダンをめぐる大陰謀論」(http://meigetu.net/?p=5417) という回からとることにします。たった一回の連載に、どれだけ捏造があるか知ってもらいたいからです。魚拓も貼っておきます(http://archive.is/Oqpg8)。

 前提として、ぼくと仲正先生は「ポストモダン」という思想の是非について論争していることも頭に入れておいてください。ぼくは「ポストモダンはだめ」、仲正先生は「ポストモダンはだめじゃない」という立場です。もっとも本記事の内容を理解するうえで、ポストモダンがどのような思想か、くわしく知る必要はありません。必要なことは、そのつど説明していきます。

パターン①の例

スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える』

をめぐる捏造

まず、背景を説明しましょう。ぼくはツイッターで、次のような内容の話をしました。

Ⅰ ブランクスレートという思想があり、これは時代遅れである。

Ⅱ ポストモダンは、時代遅れなブランクスレートの一種である。

Ⅲ 認知心理学者スティーブン・ピンカーは、ポストモダンをブランクスレートであるとして批判している。

 ブランクスレートとは、人間の心や行動は、おもに文化や経験などの後天的な要因に影響されるという考えのことです。この考えによれば、人間には、食欲や性欲、喜怒哀楽などの素朴な感情をのぞいて、生まれつきの本性はありません。20世紀後半には、こうした考えが多くの人に信じられていました。しかし現在では、脳や遺伝子から人間の心や行動を探る研究がさかんにおこなわれるようになり、ブランクスレートは下火となっています。

 ぼくはポストモダンもブランクスレートの一種であり、もはや時代遅れと考えています。そのためⅠ~Ⅲのような主張をしました。すると仲正先生は「ポストモダンをめぐる大陰謀論」で、この三つの主張すべてを批判しました。もっとも、ⅠとⅡについてぼくと仲正先生のどちらが正しいかは、本記事の論旨では重要ではありません。問題は、仲正先生が、ぼくの主張Ⅲ(認知心理学者スティーブン・ピンカーは、ポストモダンをブランクスレートであるとして批判している)を、次のように否定していることです。

『人間の本性を考える』を読んでみると、ピンカーが哲学における「ブランクスレート」説として念頭に置いているのは、“ポストモダン”ではなく、イギリス経験論に代表される近代哲学全般であることが分かる。「ポストモダン」についても少しだけ言及しているが、これはイメージや表象の生得性について論じる文脈に出てくる議論であって、別に「ポストモダン」を「ブランクスレート」説の代表に見立てて徹底批判しているわけではない。しかも、ポストモダニストの具体名を挙げているわけではない。山川がこの本にちゃんと目を通して、普通に理解していれば、とてもポストモダン批判の書として引き合いに出せないだろう。

 仲正先生は、ピンカーの著書『人間の本性を考える』について、ポストモダンを徹底批判しているわけではないとか、ポストモダニストの具体名を挙げているわけではないとか述べています。こんなものをポストモダン批判の書として引きあいに出している山川は、ちゃんと目を通していないのだろうというのです。これは完全な嘘です。『人間の本性を考える』の書影をみてみましょう。

 帯に「ポストモダン思想の欺瞞を暴く」とはっきり書いてあります。ピンカーは仲正先生の主張に反し、同書でポストモダニストの具体名を挙げ、ポストモダンをブランクスレートの一種だとして、徹底的に批判しているのです。そうした個所を引用してみましょう。

イメージと思考を同一とみなすポストモダニストの考えは、いくつかの学問分野をそこなっているのみならず、現代美術の世界にも荒廃をもたらしている。(『人間の本性を考える (中)』、p152)

 ピンカーは、ポストモダンが学問にも芸術にも悪影響を与えている、といっています。

 ピンカーはまた、ブランクスレートにもとづいた発想のひとつとして、今日の学会に蔓延する相対主義があると述べています。

相対主義には二つの意味でブランク・スレートの教義がからんでいる。(『人間の本性を考える (中)』、p152)

 そしてピンカーは、以下の個所で脱構築主義やポストモダニズムをはじめとする相対主義の教義と述べています。ポストモダンを相対主義の代表とみなしているので、ブランクスレートだと考えていることになります。脱構築主義というのは、ポストモダニストであるジャック・デリダの影響下にある思想のことです。

社会科学の考えにはよくあることだが、言語を中心とするこの考えかたも、脱構築主義やポストモダニズムをはじめとする相対主義の教義において極端なかたちをとる。ジャック・デリダのような権威者の文章には、「言語から逃れるのは不可能である」「テクストは自己言及的である」「言語は力だ」「テクストの外には何も存在しない」といったアフォリズムがちりばめられている。同様に、J・ヒリス・ミラーは「言語は、人間の手のうちにある機器や道具のように従順な思考の手段ではない。むしろ言語が人間と人間の“世界”を考えるのだ……言語がそうすることを人間に許すなら」と書いた。そして「もっとも極端な言明」という賞はまちがいなく、「人間は言語以前には存在しない、種としても個人としても」と宣言したロラン・バルトのものだ。/こうした考えのおおもとは言語学がその出所だといわれているが、ほとんどの言語学者は、脱構築主義者は前後の見境をなくしていると考えている。(『人間の本性を考える (中)』、p135)

 ピンカーはここでデリダ、ミラー、バルトの名を挙げ、彼らが極端な考えかたをするとか、ほとんどの言語学者は彼らが前後の見境をなくしているとみなしているとか、厳しく批判しています。三人とも、ポストモダン系列の人々です。このように、具体名を挙げた批判もちゃんとあります。

モダニズムとポストモダニズムは、とっくに否定された知覚に関する説――感覚器官は色や音の集まりを未処理のまま脳に提示するだけで、知覚体験の中にあるそれ以外のものはすべて学習された社会的構築物だという説にしがみついている。(『人間の本性を考える (下)』、p251)

 ポストモダン思想は、もはや否定された知覚理論にしたがっている、とピンカーは述べています。

ポストモダニズムはこの極端からさらにいっそう極端な方向に向かい、理論が主題のお株を奪い、理論自体がパフォーマンス・アートの一ジャンルとなった。(中略)この姿勢が彼らを、毎年、「学術書および学術論文にみられた、文体的にもっとも嘆かわしい一文を賞する」悪文コンテストの常勝者にしてきた。一九九八年の一等賞は、高名なバークリーの修辞学教授ジュディス・バトラーが次の一文によって獲得した。(『人間の本性を考える (下)』、p257)

 ここでは、ポストモダニストの著作によくある、異常に読みづらい文体が槍玉に挙げられています。もちろん、バトラーもポストモダニストです。ピンカーはこの後バトラーの、日本語訳にして六行にわたる一文を引用していますが、そちらは割愛します。

 ピンカーはさらに、本書の終盤で、なかなかユニークなポストモダン批判をします。ジョージ・オーウェルの有名な小説「1984」は、未来世界を舞台に、暗黒の独裁国家を描いたものですが、ピンカーはポストモダン思想が、この暗黒国家の採用しているイデオロギーにそっくりだというのです。

それほど知られていないが、この体制は明瞭に表現された哲学をもっていた。それは、ウィンストン・スミスが台にしばりつけられ、政府エージェントのオブライエンから拷問と講義をかわるがわる受ける痛ましい場面でスミスに説明される。体制の哲学は徹底してポストモダニズム的である、とオブライエンは説明する(もちろん、ポストモダニズムという言葉は使っていないが)。(『人間の本性を考える (下)』、p278)

 このあとピンカーは、暗黒国家の政府エージェントであるオブライエンのセリフを引用します。ここでもその一部をさらに引用しておきましょう。

君は現実とは客観的なもの、外在的なもの、自律的に存在するものだと信じている。君はまた、現実の特性とは自明の理だと信じている。(中略)しかしはっきり言っておくが、ウィンストン、現実とは外生的なものではないのだよ。現実は人間の、頭の中にだけ存在するものであって、それ以外のところでは見つからないのだ。(『人間の本性を考える (下)』、p278)

 そしてピンカーは、次のように述べます。

オブライエンの講義はポストモダニズムの擁護者を躊躇させるはずだ。権力の装備を脱構築することを誇っている哲学が、権力に挑戦することを不可能にする相対主義を採用しているのはなんとも皮肉である。相対主義は権力者の欺瞞を判断することのできる客観的な尺度の存在を否定しているからだ。(『人間の本性を考える (下)』、p279)

 これがポストモダンへの徹底批判でなくて、なんなのでしょうか。

 仲正先生が話をすりかえることのないよう、ここでくりかえしておきます。いまここで問題なのは、ピンカーの主張が妥当か否かではなく、仲正先生が、ピンカーの主張を完全に捏造していることです。これはもはや、学者生命を危機にさらす行為といっていいのではないでしょうか。

 しかも仲正先生が、それほどのリスクを犯してまで達成したかった目的はというと、この捏造をもとに、ぼくがかんちがいや知ったかぶりで妙なことをいっているかのように仕立てあげ、次のように罵倒することでしかないのです。

「ブランクスレート」説というと、何か新しい概念のように聞こえるが、これは高校の倫理などで習う、「タブラ・ラサ(心は白紙)」という考え方のことである。高校の倫理レベルの哲学史の知識があれば分かるように、タブラ・ラサは、ロック以降のイギリス経験論の基本にある考え方である。イギリス経験論の系譜に連なるのは、構造主義/ポスト構造主義等の((1)の意味での)“ポストモダン系思想”ではなくて、むしろこれと水と油の関係にあると思われている分析哲学である。西欧哲学史の常識があれば、「ブランクスレート」説批判を、「構造主義」批判とほぼイコールで結ぶのは見当外れであることが分かるはずだ。山川には高校生や大学一年次の哲学概論レベルでの常識もないのだろうか?

 ぼくは、仲正先生が一日も早くわれに返り、自分がどれだけわりにあわない行為にふけっているか気づいてくれることを祈っています。

そのⅡにつづく

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