「それがあなたの幸せとしても」/歌って、はじめて気づくこと。
こんにちは。桜小路いをりです。
私は、noteで音楽についての記事をよく投稿しています。
自分なりにじっくり聴いて、耳から流れ込んでくる曲の中から、心に残った欠片を掬い取るような気持ちでいつも記事を書いているのですが、最近、ちょっとそのスタンスが揺らぐ出来事がありました。
事の発端は、「プロジェクトセカイ」のユニット「25時、ナイトコードで。(ニーゴ)」のアルバムが発売されたとき。
中でも、「それがあなたの幸せとしても」のカバーを聴いて、オリジナルにはなかった間奏のコーラスに、思わず耳も心も奪われました。
「それがあなたの幸せとしても」は、自ら命を絶とうとする人に対して、「”それがあなたの幸せとしても”、私はあなたにいなくなってほしくない」と歌う曲。
温かい涙が込み上げてくるような、「もう少し、もう少し」と顔を上げられるような包容力と優しさに、胸がいっぱいになって。
でも、言葉にしようと思っても、その感動がなかなか文字にならなくて。
先日ひとりカラオケに行ったときに、「歌ってみたら何か分かるかも」と思い立ちました。
何度も聴いて覚えていたので、初めてでも難なく歌えたのですが。
歌っている最中、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくて、でも不思議な脱力感や無力感が立ち込めてきて。
とてもじゃないけれど、間奏で絵名ちゃんのように力強い声でコーラスを歌うことはできなかったんです。
歌えば歌うほど、感情を込めようとすればするほど、歌詞を想えば想うほど「ああ、私には歌うことしかできないんだ」と。
今まさに生と死の境界のぎりぎりにいて、生の場所から一步踏み出していこうとする人の手を握ることも、その腕を強く引っ張って止めることもできないんだ、と。
自ら命を絶とうとする大切な人を止めようとする歌詞は、歌ってみると、こんなに無力感に苛まれて苦しいものなんだと気がつきました。
改めて、この曲をボーカロイドの巡音ルカさんが歌う理由と意味が、分かる気がします。
ニーゴのカバーでは、巡音ルカさんの他、宵崎奏ちゃんと東雲絵名ちゃんがこの曲を歌っています。
この歌詞を、歌えば歌うほど苦しくなるようなこの曲を、誰かの「明日」のために歌う、その強さ。
それを改めて感じたし、奏ちゃんと絵名ちゃんという人選にも納得でした。
このふたりは、ニーゴの中でも「自分の抱えていることから逃げない選択」、あるいは「逃げても、また自力で戻って来る選択」をしたふたりです。
だからこそ、胸に募る無力感を抱えたままで、そこから逃げないで、この曲を歌い上げられるんじゃないかなと思います。
特に、オリジナルにはなかった印象的なコーラスは、こんな歌詞の後に入っています。
「言葉だけが言葉になるわけじゃない」
この歌詞の後、オリジナルではルカさんの声は消え、代わりに寄り添うように間奏が流れます。
しかし、ニーゴのカバーでは、その合間すら惜しむように、コーラスが歌われる。
何か自分にできることはないか、例え「言葉だけが言葉になるわけじゃない」としても、言葉では引き止められなくても、せめて。
そんな優しさや、この歌詞の「あなた」に向ける強い想いも感じます。
この感動は、きっと「それがあなたの幸せとしても」を歌ってみなければ分からなかったし、気づくこともできませんでした。
そう考えると、音楽って、本当にその1曲1曲に深遠な魅力が詰まっていて、それを少しずつでも知っていこう、紐解こうとすることも含めて「鑑賞」なのだと思います。
本当は、「それがあなたの幸せとしても」に心の底から救われるような状況にならないことが、いちばん幸せなのかもしれない。
でも、もしもそんな瀬戸際にまで心が追い詰められてしまったときが来てしまったら。
きっとこの曲が、そこでよろめいてしまわないように、支えてくれる気がします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。